戦後俳句を読む(23 -1) 楠本憲吉の句【テーマ:妻と女の間】 / 筑紫磐井

さくらんぼかたみに摘まみ失語夫婦

まさに倦怠期の絶頂にある夫婦である。かたみとは互いにであり、盛ってあるサクランボを交互に一粒づつ摘み食するのだが、その間沈黙が流れる。実に長い沈黙である。語るべき言葉を持ち合わせないのだ、それくらい夫婦の間で時間が経ってしまっている。

男女の間と言葉の関係は、3つの時期があるという。初期は饒舌に語り合っていた二人が突然黙りあう段階、中期は言葉がもどかしくも伝わらなくなる段階、終期は何をしゃべったらよいか、お互いに言葉を探し合う段階だという。だから大概の歌謡曲は、この3つの段階を歌い上げるのだという。そうした最終段階に入った夫婦をこの句は描いている。

しかし最終段階に入ったからと言って夫婦の生活が終了してしまうわけではない。永遠に近い長い時間をかけてこの失語の状態が続いていくこともある。この生活を破綻させて、新しい状況を作ることに二人が意欲を持つかどうか、そんなことをするエネルギーがあるかどうか、その先に希望に満ちた新しい生活が待っているかどうか、経験もない無知な若い時代ならともかくも、10年も20年もの時間の経過は、情熱を持つ対象などあるはずもないことを知ってしまうかもしれない。

冬苺いまさら夫婦とは愛とはなど

サクランボが冬苺に化けているが、露骨に言えばこうしたことであろう。いまさら、なのである。これは人生の普遍の原理といえなくもなさそうだが、不思議なのは、憲吉の場合あっという間にこうした状況になっていることである。結婚直後からこうした雰囲気を漂わせている。だからこれは時間の経過がこうした感情を生みだしているのではなく、持って生まれた性分であり、憲吉の本質なのである。これらの句を読んで若い人たちも愛情に絶望すべきではない、ただ憲吉のような人物を選ばない賢明な分別を持つべきである。そしてこうした感情からそろそろ卒業しかかっている我々の世代は、十分おもしろがってよいのである。人生の機微に触れている、と無責任に言いながら。

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