戦後俳句を読む(26 – 1)楠本憲吉の句【テーマ:妻と女の間】/筑紫磐井

竹落葉哀しかなしと掃く妻に
春嵐悲しきものに妻の嘘
妻がもたらす湿地茸(しめじ)ひと皿哀しけれ
机拭く妻に悲しみありや無し

楠本憲吉と妻を結んで出てくる語に意外に「悲し」と言う言葉が多い。もちろん陽気な句もあり、激しい戦争の句もあるが、悲しみの句が目立つのである。

だから前回触れた、「アイリスや妻の悲しみ国を問わず」という言葉がごく自然に出てくるわけである。ただ、言っておくが何故悲しいかは反省していない。誰が見ても、憲吉のせいで悲しいのだし、憲吉以外のいかなる原因に基づいても妻の悲しみは生まれない。それを押し隠して、健気な妻だけを仕立て上げてしまっている。

しかし考えてみると、俳句は都合の悪いことを押し隠す芸術であるといえるかも知れない。短歌がまなじりを決して、リアリスティックにその原因を追及するのに、そうしたことを無粋だとして行ってこなかった。俳句は省略の文学とか沈黙の文学とかいう人がいるが、意識的にそれをやれば不誠実な文学であると言ってもいいのではないか。戦争のさなか花鳥諷詠を詠んでいられるのも多少ともそうした心理が原因しているかも知れない。

そうした意味では、こんな言葉だけの悲しみの句ではなく、むしろ露悪的な俳句にこそ、憲吉の良心が伺えるのである。対比のために上げれば、すでに以前取り上げた、

枝豆は妻のつぶてか妻と酌めば

はなかなかどうして、読めば読むほど立派な作品と思われてくる。こんな俳句を詠んだ作家はおよそ見たことがない。それは俳人も一応平穏に見せかけた家庭を持っているからであり、その実どろどろとした妻との関係がない方が可笑しい、しかしそれを俳句で詠む勇気をみな持っていなかったのだ。

悲しみの句と違って、この句が格段に優れているところは、悲しみの句が偽り粧われた妻の悲しみを詠んですっかり馬脚を現わしているのに対し、この句は208高地並みの激しい砲弾戦が行われているのにも関わらず、硝煙のあい間に「妻と酌めば」とあるところだ。この妻との関係は、なかなか夫婦でなくてはうかがい知れない機微にわたり、心理の綾があるようである。一体夫婦とは何か、を考えるきっかけにもなる。夫婦だからといって愛が永遠に続くはずがないのである。よし、続くとしてもそれは断続的に続くわけであり、その絶え間絶え間ににあって妻は夫をどのように考え、夫は妻をどのように見ているのか。妻も夫も直視したくない現実を、ひねりとか、諧謔という武器を持っていることを幸い、暴露するのである。俳人としての勇気を高く評価したいと思う。

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