戦後俳句を読む (23- 3) ― 「獣」を読む ―  青玄系作家の句 / 岡村知昭

わが愛語猫に通ぜず霜解くる    日野晏子

猫は夫人の膝の上で小さく喉を鳴らしながら、おとなしく夫人の愛撫を受けている。頭からはじまり顔から喉、そして腹回りから足、尻尾に至るまで夫人の手は柔らかく猫の毛並みを撫で回している。そして夫人の手が猫の全身をくまなく動く間には、「ほんとうにお前はかわいいねえ」「よしよし」何度も繰り返される夫人からの感嘆が、もうひとつの愛撫として全身にくまなく注がれている。だがここが猫の猫たる所以なのか、夫人が言葉と態度のすべてを駆使して猫に注ぎ込む愛情に対して、膝の上の猫の態度ときたら喜びをあらわにするわけではなく、されど愛情をうっとうしく感じて逃げ出すというのでもなく、相も変わらず膝の上でゴロゴロ喉を鳴らしているばかり。夫人としても猫というのはそのようなものとわかってはいるけれど、だけど少しぐらいは喜びを見せてくれたっていいんじゃないの、との思いはどうしてもこみあげてくる。たかが猫されど猫、おまえはどうせわかってくれないのねえ、などと愚痴を思わず口にしたくなるのも、霜が解けていよいよ春の訪れが身近に感じられてきた頃だからなのだろうか。

ここまで書いてきてなんなのだが、この一句について「そのようなことなら題材としてありがちではないか」との声が聞こえてきそうなのは致し方なく思っている。ならば境涯詠の枠に収めて、夫である日野草城を世話を一身に引き受けている日常を背景にして「愛語」を深読みしてしまうというのも、読みとしては可能かもしれないが、あまり「草城の妻」にとらわれ過ぎるのもよろしくはないだろう。ということで、ここは「日野晏子遺句集」に登場するそのほかの猫の句を見て置こう。

猫のせて膝あたたかき十三夜
座るより猫の四つ児が膝慕ふ
猫の子に膝とられ窮屈に縫ふ
まんじゅさげ真白き猫の子を抱いて

引用したこれらの猫の句においては、猫に真向かう人物の姿もまたきちんと描かれているのが何とも興味深いところである。膝の上の猫の温もりをしみじみと感じながら秋の夜長を過ごす様子、自分が座ろうとしたとたんに膝の上にちょこんと載ってきて当たり前のように座り込む猫の自分を「慕ふ」ことへの喜び、「窮屈に縫ふ」と言いながら膝の上の猫の子を可愛がらずにはいられない自分の姿、それぞれに自分と猫の関係が成立してなければこのような楽しげな作品とはなりえないだろうことは十分にうかがえる、夫人たる晏子からの「愛語」はこのとき間違いなく猫に伝わっているはず、との確信に満ちている。「まんじゅさげ」の句においてもそれは変わらない。「まんじゅさげ」の紅は「真白き猫の子」の白をさらに引き立てるために用意されており、いま両腕で抱きかかえる白い子猫の可愛らしさを褒め称えたくてやまない自分の想いを、「愛語」を用いずに表現できている。もちろん白い子猫には自分の気持ちは伝わっているはず、との確信は揺らがない。このように「夫人と猫」の関係を見てきたとき、ならばなぜ冒頭の一句であのような意味深な書き方を、と思ってしまいそうになるのだが、やはりここは思わず口を突いて出てしまった言葉を一句へ持ち込んだ、と見るのが適当なのかもしれない。猫との時間が大切なものであるからこそ、自分の感情の微妙な部分に突き当たるというのもありえるのかもしれないから。

猫の子を妻溺愛すわれ病めば    日野草城(句集「人生の午後」より)

夫である草城も亡くなった飼い猫への追悼句を作っているほど猫を可愛がっていたのだが、この一句では猫を可愛がる妻の姿に、どこか微妙なシニカルさを与えている。それは「病めば」すなわち「自分が病気になってしまったから妻はそれこそ『猫可愛がり』するようになった」と妻の献身的な介護を必要とする夫の目線がもたらすものだろう。草城もまたこの一句を通じて、自分の中に潜む妻への感情の微妙な部分と出会ってしまっていたのかもしれない。なるほど、猫とはなかなかに油断ならない生物であることが、この夫妻の様子を見ていても大いにうかがい知れるところである。

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