戦後俳句を読む(26 – 3)戦後における川柳・俳句・短歌(1949年)/兵頭全郎

一本のたばこになって日が暮れる  (1949年 『椙本紋太川柳集』 椙本紋太)
父も子もいる夜を母はうれしがり

前回の岸本水府とならび、現在の川柳への大きな流れを作った一人ともいえる椙本紋太。「川柳は人間である」ことを軸とし「自らの姿をありのまゝ表現することに努力し、川柳を真っ向にかゝげて精進することをたすけるため」として『ふあうすと』誌を創刊したと資料にある。掲出句はこの「ありのまゝの表現」の両端を思って選んだのだが、「一本のたばこになって」という抽象化の表現と「うれしがり」という個人の事情が同じ句集に同居しているのがこの当時の状況といえるだろう。直観にせよ凝視にせよ「ありのまゝ」を見ていることに変わりはなく、またその対象や作者自身が「人間である」というのも当然なことなのだ。しかし資料によれば紋太は小難しい柳論を唱えることをよしとしていなかったようで、そういう人物が発した「川柳は人間である」や「自らの姿をありのまゝ表現することに努力し」といった言葉は作品と共に、後の人間によってより楽な方向で解釈されてしまったのかもしれない。つまり少々難解で作句に技量やセンスの要る「一本のたばこ〜」は脇に置かれ、誰にでも作れそうな「〜うれしがり」のような句だけを「ありのまゝ」として現在に受け継がれた感が強い。『ふあうすと』創刊時の言葉には先に「ふあうすとは主義を標榜して起ったものではない」とあって、紋太は川柳観に大きな幅を持っていたのがわかる。あらゆる可能性を川柳に受け入れる度量こそが真髄であって、理解を超えたものや自己の意に沿わないものへの安易な否定や排除は川柳という分野にとって何のプラスにもならないことを肝に銘じておきたい。

山を視る山に陽あたり夫あらず  (1949年 『月光抄』 桂信子)
ゆるやかに着てひとと逢ふ螢の夜

46年で取り上げた鈴木しづ子『春雷』の句と比較すると、この『月光抄』はより作者の思念が色濃く書かれているように感じる。もっとも52年しづ子の第二句集『指環』はさらに奔放な女性の姿が書かれているようなので、未亡人の自己投影や病気の母を詠んだ『月光抄』は、俳句へ書かれる作者の思念とか情とかの量の変化でみると、ちょうど時の流れに沿うように生まれたと言えるのかもしれない。「山に陽あたり」と「夫あらず」の明らかな心情とのギャップを「山を視る」という行動を先に置くことで、山と女性とを一つの景色へ溶け込ませている。また「ひとと逢ふ」ことへの気持ちを「ゆるやかに着て」という動きで表す巧みさ。このあたりの心の表現は、あとわずかに客観的にするだけで川柳といえるだろう。先の紋太の「一本のたばこ〜」の句とこの「ゆるやかに〜」の句はかなり表現として近いものを感じるが、逆に言うとこの二句の間に当時の川柳と俳句の線引きができるのかもしれない。

かるがると夕べ煙の流るるに何に戰の日の思ひはかへる  (1949年 『眞實』 高安國世)
収入なき父が病む我に金を置き卵を置きて歸り行きたり

さて、短歌の方はここでも戦後色が濃い。この四年分の短歌に書かれているテーマをざっとみると、戦争・病・家族・貧困・思想…といったものでほぼ括られる。資料の偏りもあるだろうが、柳俳との形式的な差だろうか、それぞれの信条の違いこそあれ作者ごとの手法的な差が今一つ見つけにくいと感じている。ここまでの短歌人像をイメージすると清貧の思想家といった感じで、理想と現実の間の生々しさをありのままに描いているようだ。ちなみに、俳句人には表現の自由を得てそれぞれに孤高を求める探求者のような、川柳人は現実の貧しさに一時目を瞑って少しでも光や温もりのある方を向こうとする逃避者の印象があるのだが、どれもそれぞれの方面から「そんなことはない」とお叱りを受けるかも知れない。CMの隅に書かれた「※個人の感想です」くらいに取ってもらえればと思う。

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