軍神になるかも知れぬ子の寝顔 岡田農人 (1944年 『三丞山川柳撰集』本田渓花坊選)
故郷に似たる彼の丘敵がゐる 四碇一郎
「三丞山川柳会」は大戦中、傷痍軍人大阪療養所内の教養講座として設けられ、句集はその発会二周年記念として刊行された。その後書きに「昭和の防人の歌」との文言があるように、まさに戦争の渦中にいた人々のナマの言葉がつづられている。「軍神になるかも知れぬ子」という視線は親としての期待とも憂慮ともとれるし、「敵がゐる/彼の丘」に「故郷」を見た裏には、兵隊として前線に送られるまでは普通の暮しをしていた人間が持つであろう複雑な感情が見て取れる。
戦争の真っただ中に発刊されたものの表現がどこまで許されたのだろうかとこの時期の句を見たのだが、家族や郷愁を素直に書いたものが多い。ただ「同じ乳で育ちし兄は神となり 西窪ふみを」や先の「軍神に〜」の句に見るように、今の時代になって読めばそれが単なる称賛や期待だけではないような匂いがかすかに残された句もいくつかあるように思った。
起重機の見えて暮しぬ釣荵 中村汀女 (1944年 『汀女句集』)
咳の子のなぞなぞあそびきりもなや
大正七年から昭和十八年の制作年別編集の句集らしく、時期的なズレもあってか資料に掲載されている句には戦争の影が無い。主婦視線で描いた俳句の第一人者と解説で書かれているように、自らが母であることや自分の母への思慕といった女性らしさが前面に出た作品が並んでいる。唯一「起重機」という硬さの目立つ句を拾ったが、それははるか遠景に置かれていて生活の視界には「釣荵」という涼やかなものがふわりと配置されている。また「きりもなや」というゆったりとした時間の流れも、戦争の緊張感には不釣り合いなほどゆったりと描かれている。
前回同様、この時期の表現にはやはりかなりの制限があったようだが、報道や新聞といったメディアがまず対象になり、そこから影響力のある順に統制がかかるという状況があったらしい。逆に言えば、官や体制から遠くにいればいるほど表現の自由度はある程度あったとも考えられる訳で、それが句に残された「匂い」の差になっているのではないだろうか。
花一枝背にさしゆく兵も振り返らずに行きてしまひき 齋藤史 (1943年 『朱天』)
わたくし事をいふは恥かしき時ながら心惱みて生くるものかも
「齋藤史の歌集から一冊を選ぶとしたら、戦前新風の紅一点歌集である『魚歌』か、円熟期の『ひたくれなゐ』を指名する人がほとんどだろう。私も多分『魚歌』を選ぶ。しかし昭和十八年から一冊を選ぶという作業では史の『朱天』を指名するのがベストだ。この年は大東亜戦争歌集が三冊も出て、現象的には戦争歌のボルテージが最も高かった時期。」(三枝昻之氏の解説より)
加えて解説では史の父や親友が二・二六事件に加担していて、いわばこれを内側から見ていた立場にあったと書かれている。この時期にかなり特異な環境にあった作者の歌は、やはりひと際目立つ。戦争という現実を体制の側と個人の側とで見た時、「生くる」ということの意味を考えることすら「恥かし」と言わねばならない状況は過酷だ。そんな中で「花一枝背にさしゆく兵」のユーモアが、悲しい。
次回からいよいよ「戦後」に入るが、言語統制という圧力がどのように抜けて、また社会環境や教育・価値観などの変化が作品にどのような変化を与えていくのかを見ていこうと思う。