第2回シンポジウム「詩型の融合」について 浜江順子

現代詩の森はさらに深い。

 2012年3月3日(土)、詩歌梁山泊~三詩型交流企画 第2回シンポジウム「詩型の融合」が日本出版クラブ会館「鳳凰」の間で行われた。いまいち詩人の参加が少ないという感はいなめなかったが、会場は歌人、俳人など大勢詰めかけ、今回も盛況であった。

 一部の藤井貞和氏の基調講演は東日本大震災後の詩、短歌、俳句にダイナミックな論考を加え、興味深いものだった。それを受けて、二部は、森川雅美氏の司会により、詩人の藤井貞和氏、歌人の江田浩司氏、歌人の笹公人氏、俳人の対馬康子氏、俳人の筑紫磐井氏により、震災後の三詩型だけでなく、幅広く各ジャンルを超えた活発な意見が交わされた。

 ここでは、恐縮だが私の興味のアンテナに引っかかったものだけで、述べてみたいと思う。現代詩、短歌、俳句の融合について講演後半の藤井貞和氏の説明は、私には遅まきながらまさに目からウロコに近いといっていいほど勉強になった。現代詩、短歌、俳句を定型詩か、音数律か、自由詩か、口語詩か、日本語かに分け、それぞれ○、×、△をつけた表は、実に興味深い。『おっ、現代詩は日本語かで、×ということは、現代詩は日本語じゃないのか! やっぱりな』などなど。現代詩はもちろん、定型詩のところには×がついているが、氏は現代詩においても、型は避けて通れないという。つまり、型をつくりながら、型を壊していく。これは、短歌、俳句ともに同じだと論ずる。これは、藤井貞和氏は『自由詩学』(思潮社)で、述べている。“口語自由詩は自由である。混沌やオジヤどころか、何を書いてもよく、どう書いてもよいのだから、口語のなかに文語ぐらいは、平気でふくむし、短歌も俳句も堂々と自由詩であり、七五調だろうが、ソネットだろうが、自由詩としてあり、もろもろの短詩型文学は全部自由詩のためにあるのであり、押韻定型だって、必要とあるなら自由詩はやってのける“に通じる。

 二部のディスカッションでもおもしろいと思った発言についてだけ取り上げてみると、歌人の江田浩司氏が歌人の玉城徹氏が「詩は日本語では書けない」と言っていたことを述べたことだ。これは藤井貞和氏の先の表で述べた「現代詩は、日本語ではない」というものと、まさに通じるものとして、興味深く感じた。ちなみに、玉城先生は私が都立多摩高校時代三年間、「現代国語」を習った恩師である。江田氏からさらに「玉城徹氏が詩から短歌に入っていった」というのも、私はここで初めて聞き、『あゝ、それでか」と大いに納得することがあった。それは高校で歌人の玉城先生(といっても当時の私は文学にはほぼ無関心の一高校生であり、先生も生徒には歌人であることは伏せており、先生が歌人であることなどまったく知らなかった)に「現代国語」を習っている時、先生は進学校でなかったこともあってか、教科書の内、詩のところを一年間の半分以上かけて、詩のひとつ、ひとつの解説を極めて丁寧にやり、他の残りの部分はサッとこなすという感じだった。いま思えば、先生はやはり詩にまだ多くの興味を残していたのだろう。ただ、私が先生と中央線で偶然に会った時に「詩をやっています」と言ったら、「詩はむずかしくって、わからない」とトボけていたが。なお、余談になるが、今回のシンポジウムに玉城徹先生のご子息である、短歌総合紙・月刊「うた新聞」を編集発行している玉城入野氏も来ているのを、受付の名簿で偶然発見!入野氏のことは野村喜和夫氏から少し聞いていたが、一度もお会いしたことはなかったが、一部と二部の間の休憩時間に階段から上がってくるなんとなく入野氏ではないかと思える人物を発見。先生と顔はあまり似ていなかったが、痩せて背が高いところと、全体の雰囲気がなんとなく通じるものがあり、分かった。私は先生の亡くなる一年前に小熊秀雄賞の受賞報告をしにお会いしたことなどをしゃべり、すぐにお別れしたが、『会えてよかった』という思いでいっぱいになった。

 詩をやるものとして、今回の「詩型の融合」のシンポジウムは、現代詩の奥深いその背景と、短歌、俳句との広がりを改めて感じるものであり、これから

詩の森にさらに踏み入る者として、そのスタンスを確認できただけでも、大きな収穫であった。そして、それは藤井貞和氏が現代詩は日本語ではないとしながらも『自由詩学』(思潮社)で述べているように、“詩の言語は意味を手ばなしてはならない、と強調する必要があるかもしれない。意味のフロアーがどんなにうすっぺらく、ふみやぶってしまいそうでも、意味にとどまってそれを輝かせること。意味のフロアーのさきに、降りてゆくためのエレベーターがいりぐちをひらいても、乗りこんではならないこと”は、「現代詩は日本語ではない」と定義したことの氏一流の両義性として、私の胸にズーンと響いてくるのだ。これは「詩論へ」④(首都大学東京 現代詩センター 2012・2)における「響かえば、詩と歌と」の中で、アヴァンギャルド詩の道程など伝統を踏まえながら、短歌などを含め、論ずる藤井氏の詩論を鑑みる時、さらに奥深い論として我々の前に提示されているのだと思わざるをえない。

 こうした藤井貞和氏の詩論はもちろん、自身の詩作においても実践されている。例えば、『春楡の木』(思潮社刊)(第3回鮎川信夫賞、第62回芸術選奨文部科学大臣賞受賞)で、私が深く感銘した詩、「暁」においても見ることができる。五連目の“暁に別れて、うらみの強度はしなやかに、/十分に、耐えられる枕のふかふかや、/なにもないことの露を、/起きて別れる袖のうえ、ぐっしょりと敷いている。(睡魔)/”そして、最後の“(うらめしや。別れの道にちぎりおきて、なべて露おくあかつきの空〈藤原定家〉)”などを見ると、まさに詩、短歌などを縦横に行き来しながらも、詩を軽やか、かつ大胆に表現している氏の詩論の実践の極みをそこに見ることができるのである。

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