まぶしい卵 文月悠光


まぶしい卵 文月悠光

その日、木曜日の三時限目があなたを手放した。
教授が来ないと知ったのは
教室で五〇分ほど過ごした後のこと。
掲示板の〈休講情報〉を
小蟻のように追っている、
あなたの黒目は鈍い輝きで
(例えば、それは確率入門)
ジーンズのポケットがひどく熱くて、
見ると、あなたの両手がそこにねじ込まれている。
(例えば、日本文学基礎購読)
ささめきの中、
耐え忍ぶことを覚えてきたのだから
閃きへ目をつむるのも自由であるのに、
あなたはかたくなにそれを見ていた。
 
 
三時限目の続きは、
図書館の机の上で再開される。
沈黙、
それが図書館で得られる一番の効能だと
あなたは信じていたのだ。
隣に座る男は机に突っ伏して
穏やかな寝息を立てている。
(この寝息こそが、彼の生存のあかし)
彼の左手は、開かれた文庫本のページをおさえて
物語へ吸いつくように
指先を立ち上がらせている。
その姿は、
卵をあたためる一匹の小鳥を思わせた。
 
 
(首すじにあてがわれた手に驚き、肩越しに振り向くと、
私の傍らで彼がまどろんでいる。その息吹は、私の肩へと
規則正しく吹きかかり、こがね色に脱色された産毛たちを
かすかにざわめかせた。おもむろにめくられていくページ
たち。背中を撫ぜられて、わたしは瞬間的に身をひるがえ
した。彼の頬へページの袂を振り上げ、ひといきに告げる。
わたしを忘れないで、
次のページへ思いをかけて)
 
 
彼の手を通して、その汗が、体温が
本のページへ少しずつ染み透っていく。
そのぬくもりを受けとめながら、
物語の描写も、結末も
けして振り向くことがない。
(物語って揺るぎないのね)
あなたがまぶしく見つめていたそれは
果たして本当に光であったのか。
あたためられた卵はいずれ
殻を破らねばならない。

執筆者紹介

文月悠光(ふづき・ゆみ)

1991年北海道札幌市生まれ。
2006年より、詩誌「現代詩手帖」「詩学」へ詩を投稿。
2007年 第3回詩学最優秀新人賞受賞。
2008年 第46回現代詩手帖賞受賞。
2009年 第一詩集『適切な世界の適切ならざる私』上梓。
2010年 第15回中原中也賞、第19回丸山豊記念現代詩賞を受賞。

現在、東京都内の大学に在学中。
文芸誌を中心に、詩、書評、エッセイなどを発表。

タグ:

      
                  

「作品 2011年6月3日号」の記事

  

Leave a Reply



© 2009 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト. All Rights Reserved.

This blog is powered by Wordpress