水のゆくえ   財部鳥子

水のゆくえ   財部鳥子

フランクのソナタ・イ長調第一楽章のモチーフから

衰耄する女詩人は福島原子力発電所がメルトダウンしたあと涙が零れてならなかった。こんな成り行きに遭うために生きてきた無念。そして「死にたいと思ひつ春の旅カバン」などと韻を踏むしかない自分。
北京に着いてみれば前途の見えない排気ガスに噎せかえる。
「定宿が春闘していた燕都かな」フロントにはピケが張られていた。なじみのボーイが手を振る。棉花胡同の知らない宿へ紹介してもらう。毎朝の餐庁で大型テレビに映し出される日本の地震、洪水、壊れた発電所、防護服の決死の作業員たち。世界はもうここから逃げられないのだ。粥を啜りながらまたぼやいた。「電視機を見ながら髪の白くなり」尾羽打ち枯らした女詩人は十日後に再び引揚者になった。

*

三鷹市池の上教会のドームの
ソフトクリームの内部のような
白い上昇するねじれたドームの内部に
立ち現れたのは
衰耄する女詩人の育った土地
  大陸の巨大な濁った江のうねりだった
滔々と流れやまないスンガリー
  (そしてはるかな鉄橋が)
 
 
黒眼鏡の小柄な若いヴァイオリニストの弦から
噴出してソフトクリームの光線にただよう
  (どこかへ行く長い列車 あれは父が乗っている長い列車)
そのむこう 
滔々と逝くヴァイオリンのあふれる濁水の岸に
一人の少年が立って「おーい!」と叫んでいる
 
 
演奏家のまうしろの椅子にすわった衰耄する女詩人は
あの少年の声は自分だと思う たしかに自分の声
自分が育った異郷の大江の岸辺で
「おーい!」と叫ぶ澄んだ少年の声
あの声は胸の奥底から出ている自分の声
協奏のピアノがはじける隙間のどこにも声は住み始めている
 
 
濁った大江の岸に何が見えるのか
少年は向こう岸を見つめて飽きない
波のリズム  変調 
渦  渦巻き 
眩暈を誘う楽想
スンガリー江の流れ行く先の未知の大地へ
やすみなく水は流れて飽きない
 
 
やすみなく水は流れて飽きない
少年は「おーい!」と叫ぶ
江の上を行く男たちを呼んでいる
瘤のように逞しい胸と脛に
力があふれて舟を漕ぐあの満洲族の男を
帆船の舳先にゆれている細身の刀のような蒙古の男を
帆船は出て行き 
バドル船の汽笛が空高くひびく
水の錆つくような匂い 
船々の水影が奇妙な伸縮をくりかえし水面にゆれ返す
 
 
砂地に流れ着いたアンペラの切れ端を尻に敷いて
煙管の長い竹を掃除しているラオ屋の老人が
少年を手招きしている
灰色の疎らな顎鬚がふるえている 話そうとして
顔中のしわがやさしく笑っているのだ 
〝おまえは父親を呼んでいるのであろう〟
異国の言葉はそう聞こえた
〝どこまで行くのって大江に叫ぶの〟
少年は異国の言葉で答えた
〝江はどこへも行かないよ〟
〝じゃ  どこから水は来るの〟
〝どこからも来ないさ〟
〝じぃっと見てみるがいい  毎日  毎日  同じだよ
  どこへも行かず  どこからも来ないのだ
  ここに在るのさ〟
濁ったゆったりした江水が眼途のかぎりに広がっている
「おーい!」
「おーい!」
 
 
視覚障害のあるヴァイオリニストは
若いあごを強く傾げて弦から水の轟音をうねらせる
衰耄する女詩人は少年の夢から覚めてヴァイオリンになった
洪水が内臓のあちこちから溢れ出してくる
音のシャワーが白髪からしたたる
今日は水死人が新しく生まれる日だ
 
 
  プルンという町に昨日まで住んでいました
  思い出すことといったら緩みのきたテープのようです
  私の具足は遠くへ遠くへと流れて
  どこへも辿りつかない消えゆく音楽です
 
 
岸壁の石段に坐る子供たちが散らかしたキャンディの紙
薄いピンク色の紙が波に寄せてはかえし
ゆらゆら ゆらゆら 寄せてはかえす
まるで杏の花のように
そうだ 今日は蝶が生まれる日だ
水死人が生まれる日だ
前世の約束を思いだして白髪になる日だ
こんこんと何かが流れてくる

作者紹介

  • 財部鳥子(たからべ・とりこ)

新潟県生まれ。中国東北で育った。1946年に帰国。詩『いつも見る死』(円卓賞)でデビュー。詩集に『烏有の人』(萩原朔太郎賞)、『モノクロ・クロノス』(詩歌文学館賞)、『胡桃を割る人』など。小説『天府冥府』、評論『猫柳祭―犀星の満洲』、共訳に『中国現代詩集』。

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