大道大乗歩行―芸能芸術起信考― 【一】          口移しの抄 男波弘志


大道大乗歩行―芸能芸術起信考― 【一】

口移しの抄        男波弘志

ぐづぐづと咲きはじめたる華鬘草

飯蛸をやはらかく煮てお葬式

色悪の牡丹櫻を咲かさうか

この道の捨子も花に混りけり

西鶴がさつさと花を見終りぬ

ぶち割れの茶碗を拾ふ暮春かな

金継ぎの金のいやしき茶碗かな

青竹の一節ごとの白拍子

点眼の水に聚る遊女たち

舐めてゐる飴を牡丹にあげようか

大干潟のはたてより能はじまるか

夏空を立たせイエスを行かせけり

詩歌造形梁山泊

 一切の説明を拒絶して屹立する無言の俳句作品が一般の読者に理解され難いのは、むしろ当然と云うべきであろう。俳句作品の理解に於いては読者が見巧者とならねば一歩も前へは進み得ない。その意味では俳人の読者が俳人に限られていると云う、ある種の揶揄も俳句自身が通俗的な理解を拒んでいる、そう好意的に受け留めることも可能であろう。但し俳人の一人一人が自戒しなければならないのは、俳句以外の他ジャンルの俊才達が吾々の俳句をどう観ているかと云うことである。能、茶、書、彫刻、絵画、写真、陶芸(陶工)、舞踏、彼らは俗に云うところの一般読者ではなく高次の見識を備えた見巧者の群である。現在積極的に俳句と交流を持っている他ジャンルの俊才は、詩人・歌人、ばかりであり、つまりは言語表現を越えた交流が殆ど見当らないのが今の俳壇の現状である。それでは言語表現を直接には行わない、他ジャンルの作家達を動顚せしむる作品とはいったいどんな作品であろうか。本当の意味で勝れた作品はそれが俳句であろうと絵画であろうと、その通底する処は一つであろう。例えば俳人は、世阿弥の思想をその精神性深くまで云い得た作品を現代に於いて顕しているであろうか。あるいは土方巽の舞踏に遍満するエロスと狂気を誰が俳句に於いて表現しているであろうか。土門拳が天平の佛たちに向けた鬼神の眼差しを、吾々俳人も持っているであろうか。浜田庄司が無作為の絵付けを完成させた六十年の歳月を、吾々俳人も堪え得るであろうか。時間に堪え、言葉を惜しみ、直の現実を骨と肉だけで抱き締めているであろうか。仮想現実の媒体にどっぷり浸った身心で、直に花の匂いを嗅げるであろうか。生活そのものを戒めなければ真の俳句は生れない。真の俳句が生れなければ他ジャンルの俊才が吾々俳人を直に抱き締めてはくれないであろう。私はこの度の「三詩型合同企画詩歌梁山泊」の船出、解纜を心底より祝祭すると同時にこの集りが三詩型のみの極く内輪の慰撫に終ることのない様に精進を重ねてゆく所存である。数年後には詩歌梁山泊の名称が詩歌造形梁山泊となって、あらゆるジャンルの鬼たちの溜り場となることを願うばかりである。

執筆者紹介

  • 男波弘志(おなみ・ひろし)

昭和41年(1966) 真冬 出生
北澤瑞史 創刊 俳誌「季」 元会員
岡井省二 創刊 俳誌「槐」 元同人
永田耕衣 創刊 俳誌「琴座」マンの会 元会員
現在 俳誌「里」 同人
既刊句集 『阿字』(田工房)
合同句集 『超新撰21』(邑書林)に入集

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One Response to “大道大乗歩行―芸能芸術起信考― 【一】          口移しの抄 男波弘志”


  1. 5月20日号 後記 | 詩客 SHIKAKU
    on 5月 20th, 2011
    @

    […]  作品は今回、二本立てです。そのうち男波弘志さんは、これを第一回として以後、月いちペースで作品を連載してくださることになりました。もうひとつは、SST(榮猿丸+関悦史+鴇 […]

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