―テーマ:「精神」その他―
執筆者:藤田踏青・筑紫磐井・清水かおり・しなだしん・北川美美・横井理恵
近木圭之介の句/藤田踏青
海から河童落葉のような魚をつる
芥川龍之介の「河童」(昭和2年)は、すべてが人間社会と逆の河童の国の話で、当時の日本社会、人間社会を痛烈に風刺、批判した小説である。そして副題には「どうかKappaと発音して下さい。」という不可解な文章が挿入されている。確かにその語音から、異様な形態と水神の零落した姿へとすぐに想いが至る。
さて掲句は「ケイノスケ句抄」所収の<妖童記>の昭和22年の連作の一句である。この場合の河童は明らかに作者の自己戯画化であり、自画像の一つの表出方法である。精神が肉体、物質に対する心、魂、知性、理性を表すものであるのなら、芥川の小説のように河童としての自己存在がその代替装置となり、現実社会に於ける疎外感の中で抱く虚無が大きく口を開いてくるように思われる。戦争も終り、当時「層雲」の中堅としての地位を確立していた圭之介ではあったが、日々の生活には悶々としたものがあったのではないか。そして「河童」と「落葉のような魚」とはいつでも逆転可能な存在位置にあり、「落葉のような」という比喩はシダの葉で頭をなでると人間に化ける事が出来るという河童に擬した自己をも暗示しているかの如くである。
「かっぱ」
人生に疲れた詩人がおった
石の上で休息していた
ある日 魔王が不びんな奴だと
奇蹟の水をしたたらせた
すると 一匹のかっぱになった
上掲の詩は「近木圭之介詩抄」所収の昭和26年の作であるが、当時の圭之介の心境をそれらから類推することが出来、それが連作の句の背景ともなっていたのであろう。連作の一部をあげてみよう。
孤独のかっぱの月の出た顔である 昭和22年
月をとおくかっぱ石にいる 々
河童明るい夜を暗い水を見る 々
かっぱ冬になったひざをだく 々
月と河童はお互いに孤独を照らし合い、暗い水と冬はかっぱの奥深くへと滲み通ってくるかの如きである。また、掲句のすべての句から「かっぱ」という言葉を削除しても、自由律俳句として立派に通用する構成となっており、「かっぱ」=「自己」という存在自体の危うさをも示唆しているのかもしれない。因みに圭之介は芥川龍之介が好きで、その「之介」を拝借し、姓と画数でバランスのいい圭の字を充てた由(*)。
尚、昭和24年には荻原井泉水が河豚を食べる目的も兼ねて山口県の圭之介居を訪れ、そこを「河童洞」と名付けて下記の句を残している。
熟柿 宝珠のごとし かっぱ わたしの前に置く 井泉水
あら何ともなや ふぐの朝 ここなかっぱといる 々
こうした河童としての想念はその後どのように展開していったのであろうか。
思想喪失 菜の花が咲いた 昭和54年
抽象能力ゼロ 肉ジャガがただうまい 平成 4年
自己分析 丸ごと落ちた非具象果実 平成 5年
宙(そら) 一滴 平成16年
具象としての自己存在は、やがてその非具象化への過程の中で、ただ一滴としての存在感へと収斂されていったようである。
*「うしろ姿のしぐれてゆくか・山頭火と近木圭之介」桟比呂子著 海鳥社 平成15年
楠本憲吉の句/筑紫磐井
青葉騒きれいな嘘はきたなく吐き
昭和44年の作品、『孤客』より。
憲吉に高い精神性を期待するのは無理のようだ。エスプリはフランス語では精神のはずだが、日本語に入ってきたエスプリという言葉(外来語)の語感は軽妙な洒落のように受け取られている。その意味では憲吉にピッタリの言葉となった。
我々の人生の師を憲吉には期待しない。憲吉の俳句にも期待しない。期待するのはウィットに富んだ表現。しかし手際よく言ってのけたその言葉には、いくばくかの人生の真理があることも事実だ。
徒然草で兼好法師が「しやせまし、せずやあらましと思ふことは、おほやうは、せぬがよきなり」(したほうがいいか、しないほうがいいかと迷うことは、大体はしないほうがいいのだ)という言葉は、どんな思想哲学よりも真理に近い【注】。こうした消極主義は決して人生の教師から見ても褒められたものではないのだが、崖っぷちに臨んだ態度を決めないといけない時は、最大の決め手だ。酸いも甘いも噛み分けて、常に矛盾に満ちた言葉を吐き、芝居では恋の手引きをする粋な法師兼好は、さしづめ、鎌倉時代の楠本憲吉であるかもしれない。
逢えば酔語逢わねば独語年暮るる
手際よく言ってのけただけの言葉のようにも受け取れるが、この言葉の背後にはそれなりの憲吉の精神状態が浮かび上がる。酔語も独語もまともな精神状態ではないが、女に向かう時の態度はこの2つしかないのだ。女性に真面目な顔をして向かうことは、憲吉の美学に合わない。
冒頭の句も、嘘を吐く相手は女性のような、あるいは女性が男性に向かって吐く嘘のような気がする。男対男の嘘にはきれいも汚いもあるものか。
【注】とはいえ、この言葉は浄土教の金言集『一言芳談』に載る明禅法印の言葉の引用であり、彼は「聖はわろきがよきなり」という親鸞に匹敵する言葉を吐いた傑物である。その思想的な背景は決して浅くはない(徹底した消極主義はカントのような厳格主義、義務的な行為以外は善と認めないことになるだろうから)。しかし、兼好も憲吉も決してそんなに深くはないことだけは保証する。
戦後川柳/清水かおり
壷は一個をふかさとどめぬ 飢えあれば 岩村 憲治
(1938年~2001年・京都)
岩村憲治の作品は言葉の純粋性から抒情句の印象を受けることが多い。昭和40年代から50年代の激しく動いていく社会を眺めながら、日々の現実を受け入れることで、言葉が、より観念的な方向へと向かっていったのは自然なことだったのだろう。
若くから病身であった憲治の作品は、私性に基づいた精神活動をモチーフにしたものへと集中していく。当時、平安川柳社で川柳仲間だった石田柊馬(現・バックストローク)や田中博造(現・黎明)らと共に革新的な川柳の場に居ながら、憲治は川柳性の在り方を違う空気の中で見つめていたのかもしれない。
「壷は一個を」の「を」という句語、これは「~をください」と言われているような感覚を抱いた。がくがくとしたリズムの詠み方は、その瞬間の感性を第一にした場合と考えると、ここでは「壷」と「一個」を最も言いたかったのだ。例えば「飢えあれば ふかさとどめぬ 壷は一個を」と入れ替えてみると句意はなめらかに鮮明になるが、壷も一個も軽くなってしまう。「飢え」る精神は一個の壷を限りなく深く底なしの容器にしてしまい、溢れることはない。その満たされることのない一個の壷に入れるもの、入れる行為を思えば、有限の人間が無限の精神活動に支えられる瞬間が見えてくるのである。
岩村憲治の生活者としての影は夕暮れの小路を歩いているような薄蒼いもの、という認識が彼自身にあり、心の渇望が言葉の持つ生命力へと転じていくこともまた、憲治の認識するところであったと思われる。「飢える」という激しい生命活動を「ふかさとどめぬ」と持続させることにこの句意は注がれている。この時の憲治にとって「壷」は精神表現の現出物であり、川柳形式への固持に近いものであったのではないだろうか。
心における純粋な働きを精神と言えば聞こえはいいが、表現を大切にする作家にとって精神世界のどの層を書いてゆくか、現実との闘いと表現行為との折り合いは、自分に対する冷めた視線がなければ成立しにくい。感傷や自己憐憫にされずに書くとき、それは「壷」の口ように限られたわずかな空間が入り口となってくるのである。
『岩村憲治川柳集』(2004年発行)所収。
上田五千石の句/しなだしん
初蝶を見し目に何も加へざる 五千石
第四句集『琥珀』所収。
『琥珀』(*1)は、昭和五十七年より平成三年まで、四十九歳から五十八歳までの作品392句を収録する第四句集。掲句は平成三年作。昭和四十八年八月の「畦」創刊から十八年、いわば脂ののりきった時期、「眼前直覚」も熟成された時期といえるだろう。
*
著書『完本俳句塾 眼前直覚への278章』(*2)の「序にかえて」(*3)で五千石は「眼前直覚」について
「眼前」を尊重し、「即興感偶」「そのおもふ處(ところ)直(だたち)に句となる事」をめざしています。(中略)
「眼前直覚」はまた、昨日のわれは既に無く、明日のわれは未だ無い。
今日の只今われ在るのみ――という生き方へとつながっていくように思います。
と記している。
また、著書『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*4)のなかで、「眼前直覚」に至る経緯について触れている。
第一句集『田園』により第8回俳人協会新人賞受賞のあと、自意識過剰となってスランプに陥り、そのスランプは数年続く。その折、五千石はひとりで山を歩くことを思い立ち、実行する。ひたすら野山を歩くことによって無心になり、目の前にあるものを、事実をそのまま叙するという、単純な作句から自分を取り戻し、徐々に「眼前直覚」の境地に至ったのだ。
*
さもありなん。俳句に困ったら俳句を作る。自然のなかで嘱目をひらすら詠む。この至って単純なことが自分と向き合える方法なのだろう。
さて掲句。初蝶の美しさを映したその目には今は何も映したくない、という明快な句意である。「いま・ここ・われ」がストレートに形になっている。このストレートさがこの句の強さであり、真っすぐさは五千石の俳句への熱い思いと詩心の象徴である。
この句の真っすぐさこそ、「眼前直覚」であり、五千石の俳句の精神そのものといっていいだろう。
*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日 角川書店刊 シリーズ現代俳句叢書3
*2 『完本俳句塾 眼前直覚への278章』 平成3年8月30日 邑書林刊
*3 「序にかえて」は筑摩書房『俳句の本』「題二巻 俳句の実践」昭和55年5月20日初版より
*4 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』平成21年11月20日 角川グループパブリッシング刊
三橋敏雄の句/北川美美
戦争と疊の上の團扇かな
掲句から句集名を採った『疊の上』が蛇笏賞を受賞する。敏雄69歳の時である。
戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡邊白泉
敏雄が、俳句形式に立ち向い、白泉の句に対峙する代表的な戦争俳句である。
戦争にたかる無数の蠅しずか
戦前の一本道が現るる
戦火想望俳句に没頭した三橋青年が「戦争」という歴史的事実を思いつづけた重みが背景にある。戦争を詠むことは敏雄にとって終生のテーマであった。
戦争は憎むべきもの、反対すべきものに決まってますけれど、<あやまちはくりかへします秋の暮>じゃないけれど、何年かたって被害をこうむった過去の体験者がいなくなれば、また始まりますね。昭和のまちがった戦争の記憶が世間的に近ごろめっきり風化してしまった観がありますが、少なくとも体験者としては生きているうちに、戦争体験の真実の一端なりとせめて俳句に残しておきたい。単に戦争反対という言い方じゃなくて、ずしりと来るような戦争俳句をね。(*1)
生き残った敏雄がいる。
「団扇」は夏の風物詩であるが、悪霊を払うもの、軍配を決めるもの、多様な意味を持つ。「戦争にたかる無数の蠅しずか」「戦争が廊下の奥に立つてゐた(白泉)」に呼応し、誰が戦争の蠅(悪霊)を追い払うのか、誰が戦争を裁くことができるのか、という読みもできよう。団扇を手にするかどうか、それは読者次第かもしれない。
歴史上の重いテーマであり人々の脳裏に様々な映像、概念を内包する「戦争」という言葉、そして小津安二郎のカメラ目線の低いアングルが感じられる日本の日常風景である「畳の上の団扇」が、「と」で結ばれ「かな」で言い切られている。
新興俳句作品は切れ字の使用が極端に少ない。三鬼の影響が濃く反映している『まぼろしの鱶』(昭和三十年代の項)での「かな」の使用は皆無だった。しかし『眞神』から「かな」使いが復活している。初学より「新しさは歴史を通じて生き得る」(『太古』序)の確信の元、新興俳句弾圧後に古俳句研究に親しんだことに加え、高柳重信の下五「~かな」の影響が強いと感じる。この点について、『新興俳句表現史論攷』(川名大)に同意である。また古俳句の二物の「取り合わせ」「付け合せ」をみると、「や」を用いるケースが多く、「閑さや岩にしみ入る蝉の声(芭蕉)」「名月や畳の上に松の影(其角)」「鶯や下駄の歯につく小田の土(凡兆)」などがある。敏雄の句も「戦争や畳の上に置く団扇」となりえるところを、「と」で結び「かな」で感慨を言い切っている。「かな」の使用はないが、新興俳句の旗手である高屋窓秋に「山山の蒼き日と夜舞扇」がある。
掲句はある意味、高橋龍氏の「疊の上の団扇と戦争の出会い」(*2)という言葉を発展させ、いささか飛躍が過ぎるが「ホトトギスと新興俳句の邂逅」と思える。そうなると、この「と」は、偉大なる格助詞ということになる。ホトトギスから分裂し、弾圧により消滅した新興俳句の種子が木になったような、ある到達点を感じることは確かだ。敏雄の切れ字、助詞の使い方には、俳句の可能性がみえてくるのである。
余談になるが、今年に入り、中近世国語語彙・俳文学研究者の小林祥次郎氏から筆者所属俳句誌『豈』『面』をご覧になられた感想を頂いた。「現代俳句は、あまり読んだことも無いのですが、『や・かな』を使っているので、少し心が和みました。」と綴られていた。氏の執筆箇所、『俳文学大辞典』(平成7年初版・角川書店)・切れ字の項は確かに、「新興俳句以降は、『や・かな』などで簡単に詠嘆することを嫌う傾向が強い。」とあった。敏雄の『や・かな』使いが、新興俳句以降の俳句史にどう影響を与えていくのか今後の課題としたい。
『眞神』(昭和48年)以降に感じた作者の遠い彼岸からの視点が、『巡禮』(昭和54年)『長濤』(昭和54年)あたりから徐々に、『疊の上』(昭和63年)では確実に現生の遠い視点に転換されている観があることも付け加えたい。恐らく『三橋敏雄全句集』(昭和57年)が発行されたあたりに敏雄の視点は地上に降りたという気がする。
「志して至り難い遊び」(『まぼろしの鱶』後記)は、新興俳句、そして戦友・句友を悼み、戦後日本への問い、俳句とは何かという問いでありつづけた。それを敏雄の精神と理解したい。
*1) 『証言・昭和の俳句 下』(聞き手・黒田杏子/角川書店)
*2) 『弦』33号2011.7.1(遠山陽子編集・発行)
中尾寿美子論の句/横井理恵
肉体を水洗ひして芹になる 『新座』
第1回の中尾寿美子論で最初に取り上げた句である。前回のテーマ「肉体」では、この句を取り上げることができず、ついに戦線離脱してしまった。というのも、確かに「肉体」という語が用いられてはいるのだが、これが果たして「肉体」をテーマとした句なのかどうか考え込んでしまったからである。ここには「肉体」という語から直接想起される皮膚感覚――痛覚や官能はない。あるのは五感を超越した感覚である。「肉体」という語がありながら、むしろ、これこそが寿美子の「精神」の句なのだと言えはしないだろうか。
これとは逆に
浅葱の精神を水通りけり 『老虎灘』
という句は、「精神」という語を用いながら、浅葱になりきって浅葱の身体感覚を詠んでいる。寿美子の句における「肉体」や「精神」という語の解釈は、一筋縄ではいかない。
粗玉のたましひ葱の匂ひせり 『老虎灘』
詠われているのは、寿美子にとっての精神風土たる師・永田耕衣の「たましひ」かもしれない。この「たましひ」も、精神性の象徴でありながら、なんと「葱の匂ひ」という嗅覚によってとらえられている。寿美子の感覚は、見えないものを軽々ととらえ、嗅覚や触覚に変換する。
初夏やたたみ目のつく素魂など 『舞童台』
魂こそは存在の中核だから、今・ここにある自分を肯定する寿美子にとって、皮膚感覚を詠うことと魂を詠うことには何の矛盾もなかったのだろう。
そして、最晩年にたどりついたのが冒頭の句である。
肉体を水洗ひして芹になる 『新座』
肉体をざぶざぶ洗って、その中核にあるものが見あらわされた瞬間―――それが、すがすがしい存在としての芹への変身だった。そんな存在のとらえ方は、寿美子の「精神」そのものだったと言えるのではないだろうか。(了)