文体の変化【テーマ:リアリズムの発祥①】/筑紫磐井

新しく始まったこのシリーズでは、決して傑作ではない、しかし現代俳句が忘れてしまった文体を思い出してみたいと思ってテーマにしてみた。我々が新しい俳句を志すときに、いくら現在の俳句や句集を眺めても新しい文体は発見できない。見過ごしてきた作品の中にこそヒントがあると思われるからである。

そして「傑作ではない、しかし現代俳句が忘れてしまった」ものの典型が、実は戦争俳句ではないかと思う。従軍俳句ともいわれた句であるが、戦後の価値観からごく一部の例(長谷川素逝の作品や、戦火想望俳句など)以外はまじめに取り上げられてきていない。しかし、今一度これらを眺めてみる価値はあると思う。

このような反省をしたのは、中西夕紀・原雅子・深谷義紀・仲寒蝉らと一昨年行った「遷子を読む」の共同研究によるものであった。相馬遷子は東大医学部卒業後、「馬酔木」によって俳句を始め、戦前は吟行俳句、従軍俳句で活躍し、戦後は、馬酔木高原派と呼ばれる耽美な俳句を開拓し、その後開業医としての真摯な作品を発表した。特に晩年の闘病俳句は高い評価を受けている。ただ、共同研究で注目されたのは、開業医としての作品であり、社会性俳句が登場する前の時期の医療システムの不十分な信濃の環境を詠んだ作品群であった。

汗の往診幾千なさば業果てむ     32年
ころころと老婆生きたり光る風    33年
老婆病み命を惜む田植季       
薬餌謝して死を待つ老やうすら繭   
筒鳥に涙あふれて失語症       34年
春寒し夫の葬りに妻粧ひ       35年
貧しき死診し手をひたす山清水    
隙間風殺さぬのみの老婆あり     36年
昏睡の病者と吾を蠅結ぶ       
酷寒に死して吹雪に葬らる      37年
雪催骨まで冷えて患家出づ      39年
死病見るや連翹の黄に励まされ    40年
障子貼るかたへ瀕死の癌患者     
卒中死田植の手足冷えしまま     41年
病者とわれ悩みを異にして暑し    42年
風邪患者金を払へば即他人      43年

私はこうしたリアリズム的な作品は、戦前の従軍俳句との関係が無縁ではあるまいと思っていた。遷子の俳句環境から見て、リアリズム的な句作が芽生えるのは従軍俳句以外あり得ないからであった。しかし、戦後まとめられた遷子句集は多くこうした従軍俳句を排除していた。

もちろん、従軍俳句にも出来不出来はあるし、従軍俳句の全作品を分析するといくつかの傾向に分かれることも分かる。眺めてみよう。句の下に掲げたのは初出の出典である。

第1群 海外詠

我がゆくや霞は陸にわだなかに 「出征」馬酔木16年5月
黄海や真紅の春日ただよへる  「輸送船上」鶴17年3月

従軍俳句の初期。遷子にとって戦争の大陸行が初めての海外渡航であったと思われる。その意味では、現在の海外詠に似た趣の句もなくはない。「わだなかに」「春日ただよへる」はまだ十分馬酔木的な美意識の世界であった。

第2群 戦火想望俳句

春の闇見えねひた行く人馬の列 「陣中端午」討伐行(3)馬酔木16年9月
麦秋の暮れていや黄なる麦を行く「朝焼くる戦野」鶴17年1月
黙々と憩ひ黙々と汗し行く   「炎暑討伐行」馬酔木17年4月
黍高粱野の朝焼けの金色に   「朝焼くる戦野」鶴17年1月

やがて、従軍俳句らしい作品が現れる。しかしこれは、まるで火野葦平の『麦と兵隊』を俳句に焼き直したようなものである。じっさい、遷子がこれらの句を作る直前、「改造」の昭和13年8月号に掲載されベストセラーとなったこの小説にあやかって、多くの俳人は戦火想望俳句を作る。いや、「戦火想望俳句」という名称そのものが、改造社がこの小説を売り出すために自社の雑誌「俳句研究」で俳人たちに特別作品を提出させ、その中の一人日野草城がその特別作品の題名として提出した、それが最初ではないかと思われる。遷子の作品もこれらをモデルにしたことは否めない。従軍した遷子がなぜ戦火想望なのかといえば、従軍により病気となって内地に送還され、その療養中に作った俳句だからである。

第3群 真の従軍俳句

黄塵や雨知らぬ畑に寝て憩ふ  「初陣」討伐行(1)馬酔木16年6月
湯浴みつつ黄塵なほも匂ふなり 「初陣」討伐行(2)馬酔木16年6月
一本の木蔭に群れて汗拭ふ   「朝焼くる戦野」鶴17年1月
栓取れば水筒に鳴る秋の風   「中秋討匪」馬酔木17年6月

こうした中で、軍隊生活をもう少し客観的に捉える句が生まれてくる。リアリズムというにはまだ十分ではないが、戦火想望俳句のような類想的な作品とは違った従軍者の目で見た事実であることは間違いない。

遷子自身がこうした俳句を戦後の『山国』上梓の際ネガティブに扱っていることは残念である。戦争の是非とは別に、こうした主題性を持った俳句(第1群、第2群の作品は除外する)が客観的に表現の問題として取り上げてみなかったことは惜しまれるのである。

以下、この第3種に当たる従軍俳句を、広く戦前の作品から探索することとしたい。もちろんこれは反戦俳句ではない。庶民が従軍したことにより出合った事実のルポルタージュと、そこに惹起される主観である。

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