傷
伊藤 菜乃香
結婚式の前に
眼鏡ではなく
初めてコンタクトレンズにしようと
眼科医を訪ねた
念入りに私の角膜を
覗き込む
機器による検査の後
暗室のカーテンの外の診察室で
「角膜は眼球の表面にある
外気に接する
透明な粘膜だが
無数の傷が
傷が見えます」
と
眼科医は言う
「このままコンタクトレンズを
装着すれば
曇ります
傷の隙間と
コンタクトレンズのあいだに
細菌が繁殖します
だから治療をして
目薬の雨が降ります」
と
天気予報のようなことを
言っている
怖くなり
コンタクトレンズは諦めた
あれは二十年前のこと
へその緒は自らの首を
締め上げて
すでに心停止の状態で
細胞に酸素供給も止まったまま
わたしは生まれた
産院の廊下を
看護師が走る
あの数分間
おそらく脳への
酸素供給も止まり
その影響で
無数の傷やエラーがある
あれは四十年以上も前のこと
わたしのこころにも
はっきりと分かる傷が
傷が付いている
まっさらなこころに
書き込まれた痛みの記憶
向上や理想を求めながらも
いつも安堵の岸は
遠くの余所事だった
それでもなお
柔らかに透き通る
角膜の傷は
容易に他人には
知られることもなく
不用意に外界と接している
裸眼のこころの表面に
強風で煽られた砂粒が
不意に入り込む
傷つかずには
生きられない
わたしたちは誰しも・・・
だから
ノートに書く
小さくなっていく
わたしの呻きを書く
耐え続けて
くしゃくしゃに縮む
わたしの声を
そっと拡げる
安心できる場所の
背伸びのようなもの
ガーゼを剥がして
傷の具合を
観察するようなもの
人知れず傷を負っても
黙りこんでいる
みんなのことを思い出して
2022/10/08