自由詩時評 第54回 田中庸介

光のあらわれ

四月二十九日、明治大学アカデミーコモンの教室で、セルビアから来日した山崎佳代子さんはおもむろにマイクを後ろに遠ざけ、肉声で朗読。声がきらきらと光のように空間を満たし、あとからあとから大聖堂の讃美歌のように降り注いでくる(管啓次郎氏主催「詩は何を語るのか?」)。

なにかものすごいことが起きている――、という第一印象は、詩集『みをはやみ』(書肆山田、2010)を読むと確信に近いものとなった。教養と品位にあふれた以前の詩集のクールな表情とは違い、この最新詩集ではもっと熱く、光り輝くどこかへと、作者はいきなり突き抜けている。

ひとつひとつ
歌が(戦のように)静まっていき
開かれた扉から
夕闇が
押しよせ
灯された光を
こどもたちは囲み
なにかを祈るように
私は見知らぬ力に救われていた
(夏草が香りたち)
夢のあとのように
雨上がりのように

(「光をかこむ」全篇)

これはエピローグのような短詩だが、その不思議な美しさは、それぞれの文の主語が「歌が」――「夕闇が」――「こどもたちは」――「私は」というようにずらされつつ、循環的に重なっていくところにも一因があるかもしれない。グレゴリオ聖歌の教会旋法のように、短調も長調もないまま、上昇が続く。

詩の裏側にはユーゴ内戦の悲劇を感じないわけにはいかないが、作者はその怒りを読者に向けて連鎖させようとはせず、「見知らぬ力に救われていた」と書くにとどめる。芭蕉の平泉の名句「夏草や兵どもが夢の跡」の二句があえて落とされた形で引用されているが、ここにはかつて小那覇舞天の唱えた「命の御祝い」の姿がある。

作者はまた「在るものは/地中の眠りもふくめた/命がけの唄」(「夢、ケリオン(僧坊)」)と歌うのであった。命がけの唄がしみわたるとき、そこに掛け値なしの「光」が見えている。雨上がりの草にまるい露が輝く。斎藤茂吉はかつて短歌を「いのちのあらはれ」と呼んだけれども、どんなに大きな翳があろうとも、あらわれるものはつねに、光である。そう信じさせてくれる一冊であった。

タグ:

      

Leave a Reply



© 2009 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト. All Rights Reserved.

This blog is powered by Wordpress