短歌時評 第63回 田中濯

短歌と宗教

くどいようではあるが、今年は茂吉生誕130年、あるいは啄木没後100年という短歌史的に区切りのよい年である。しかし、もう一人忘れてはならない人物がいる。中野重治である。中野は、今年で生誕110年である。短歌に親しむ人間にとっては、中野重治といえば『斎藤茂吉ノート』ということになる。斎藤よりちょうど20歳年下の中野が、当時歌壇に「君臨していた」斎藤を「評した」作品である。執筆時は対米宣戦直前である。中野は治安維持法により投獄された後に「転向」を表明し、間もなく『斎藤茂吉ノート』を書き始めた。その志(こころざし)は、まったく底知れない。この歴史的傑作がこの七月にようやく講談社文芸文庫に入ったのである。たいへん喜ばしいことである。私も改めて購入し、再読したことを報告する次第である。

さて、本稿は『斎藤茂吉ノート』のうち「ノート十一 宗教的ということ」を取り上げることから始めたい。まず冒頭は以下のような文章である。

茂吉を宗教的な作家、仏教的な詩人とする人はかつても今も少なくない。
「自分の眼に映じた最上の自然は一言にして尽せば豪宕にして着実である。斎藤君は斯ういふ郷土の仏教信者の家に生れたのである。此の点に興味を有つて自分は斎藤君の作品を読んでゐる。」(長塚節)
「斎藤茂吉氏の歌には仏教思想があるといはれてゐるが、それを具体的に言及してゐる人は未だ無い。」「斯様に仏教思想であるところの『赤光』の作者の念々には、感謝の念また起りて深い。『吾を生ましけむ母』への感謝以外にも感謝は容易く起る。」(杉浦翠子)
「ただ氏の宗教的持味がここに薄然たる風雅を示してゐるのである。」「或人は之を東洋的無常観といひ、戎人は之を南画趣味といひ、或る人は之を宗教的諦念といひ、茂吉自身も『実相観入』によつて自づと象徴に達した歌といひ、或は又『哲学・思想・人生観』に『多少答ふるところある歌』と述懐してゐる。その歌に現はれたる無常観は、仏典や梁塵秘抄や芭蕉俳諧などによつても培はれたのである。」(加藤将之)
「これに反して茂吉氏は……また宗教的諦観を持ち……」(山本英吉)

ここで現代の読者はある驚きに出会うわけであるが、それはひとまず措いて、先へ進もう。

   山水図のなかにうら若き女子(をみなご)の居ぬをうべなふ夜ふけて吾は 
   真向へる雀斑(かすも)をとめがにほひだち古の代の仏のごとし 
   床ぬちに吾臥しをれば盲ひたる宮脇武夫も死にてかへらず 
   山の雪にひと夜寝たりき純全(またき)にも限ありてふことは悲しく 
 
 すべてこれらの歌も、濁つたこの世での、にごつた人間的存在を強く肯定するものである。彼に諦念と無常観とはあろう。けれどもそれは、もしこういう言葉が許されるとすれば、宗教的諦念、東洋的無常観というよりも、現世的諦念、日本的無常観と呼ばれるべきものであろう。そこに若干の厭離穢土の気持ちがあるにせよ、彼においてそれは、そのままには欣求浄土につながつていない。

このように、中野は各論者のいう「宗教的」をいったん否定してみせる。そして、この「ノート」は以下の文章で締めくくられる。

 茂吉は、「同じ結核性の病気に罹つてゐても、綱島梁川が仏を見たり、高山樗牛がニイチエから、日蓮に帰依して感激に満ちた超世間的の文章を発表してゐたのに比して、いかに子規の病牀生活が非宗教的で、平凡で、現実的、裟婆的、此岸的であるかを見よ。」(『正岡子規』)といっている。そうして、辞世の句について芭蕉と子規とを比べ、「この姿婆的なところが、子規文学の特色でもあり、写生の妙諦でもある。そして、この裟婆的、現実的現象の追尋がおのづからにして永遠に通じ、彼岸界にもつながるので」(同上)あつてといつている。子規は、同じ病気の梁川よりも樗牛よりも強かった。現世的に強かつたと同時に、いわばそのことによつて宗教的にも強かつた。そうして茂吉は、長崎時代の病歴はそれとして、子規よりもはるかに強い肉体を持つている。しかも茂吉は、子規について「宗教的」がいわれぬ程度において「宗教的」をいわれている。いわば茂吉は、彼の肉体の健康において、子規よりも宗教的に弱いのである。茂吉は赤彦に比べてはるかにあけつぴろげであるが、子規は茂吉よりもさらにあけつぴろげである。二つのあけつぴろげは性質を異にしている。したがつて直接これを比較することはできないが、茂吉は子規よりも内攻的であり、はなはだ現世的でありながら、同時にいわば肉体的に彼岸の観念を生きている。形は二股である。実地には車裂きである。「斎藤茂吉の歌だけは、歌のよしあしに拘らず、歌の方から人に呼びかけるやうなところがありはしないか。」(宇野)というのも、裂かれる茂吉が血を出しているということに関係があろう。そうして、子規と茂吉との違いは、四国愛媛と東北山形との違いでもあるにはちがいないが、同時にそればかりではないということにも間違いがないであろう。

中野の文章は全編このような様子であるが、読者が決して見誤ってはならないのは、中野に斎藤を尊重する意思はあっても賛美する意図はない、ということである。中野は斎藤を批判しているのであって、この「ノート十一」では、「宗教的」というタームで斎藤を斬っているのである。

さて、本稿の目的に移ろう。現代の読者がこの「ノート十一」を見て得る驚きとは、斎藤茂吉が「宗教的」であると当時読まれていた、ということである。このような論点は現代には存在しない。これは斎藤茂吉が、ある特定の宗教に帰依していたかいなかったか、ということを言っているのではない。彼の短歌に、当時の読者がなにか「宗教的」なものを感じ、そのことを堂々と表明していた、ということが現代の目には「奇妙」に映るのである。あえて言うならば、これは斎藤茂吉論だけの問題ではない。全ての短歌、ほぼ全ての文藝について言えることなのである。

現代の我々は、文藝の批評に「宗教」を用いることが実はできない。それは、戦後に封印されてしまった方法なのである。そこには、戦中に「国家神道」へ傾斜していたことへの「反省」とGHQの占領政策が影響している。いつしか、「宗教」は、現代の作家へは適用してはならない「地獄の釜蓋」として存在するようになったといえるだろう。あるいは、プライベートなこととして、見て見ぬふりをすることになったのである。唯一つの例外を除いては。

ケセン語訳聖書読まばやわが裡にたつたひとりのイエス立たしめ
未熟なる教師なりしをかなしめりアレルヤ唱が鎖骨に響く

大口玲子『トリサンナイタ』

その例外とはキリスト教である。日本人のキリスト教信者は人口の1%ほどしかいないが、その文藝上での存在感は比類ない。短歌のみに限っても、キリスト教信者を公言している歌人やキリスト教を重大なモチーフに採用している歌人は数多いる。実際に、歌人にはキリスト教信者が1%よりも多いのではないか、という気もするのだが、それは措く。だが、このことは少し考えればおかしいと気付くはずである。なぜ例えば黄檗宗では駄目なのだろうか。あるいは、キリスト教信者よりはるかに多いはずの戦後新宗教ではなぜ駄目なのだろうか。キリスト教だけが、なぜ高らかに、その「帰依」を表明して「差別」されることなく「尊重」されると期待されるのだろうか。もちろんそこには、日本国と大日本帝国との断絶が深く関係している。挙げた大口の最新歌集『トリサンナイタ』は、今年出版された歌集の中ではおそらく最良の歌集であるが、そこでもやはりキリスト教が重大なモチーフとなっている。おそらく、中野重治が斎藤茂吉にしたように、大口を「宗教的に弱い」というような言い方で批判することも、本来は可能なはずである。または、震災を見事に描いたその背後に、ある「脆さ」を指摘することも可能なはずだ。だが、我々にはそれが許されてはいないのである。それはタブーだからだ。

短歌は文藝のなかで、もっとも「宗教的」なジャンルである。端的に、戦後日本最大の新宗教の宗教家が短歌を発表していることは信者にとっては自明のことであるらしい。また、中山みきの「おふでさき」が短歌であることも、吉本隆明が指摘しているように周知の事実である。短歌と宗教の関係は非常に深いものであり、その「宗教的」熱情は、特権的なキリスト教を除けば、ほとんどが莫大な伏流水となって「地下」を流れているのである。あるいは、以前短歌では「アニミズム」という用語が一時流行し、消えていったが、それは短歌における「隠された宗教性」をなんとか現場にもどそうという試みであったようにも考えるのである。

私は夢想するのだが、もし現代の短歌が「衰弱」しているとして、その生命力を蘇らせる者がいるとするならば、自覚しているにせよしていないにせよ、それは「宗教的」な歌人であるように思える。あるいは、我々はいまだに河野裕子という歌人を上手く論じることができないでいるが、「宗教的」に眺めれば、存外全体像を掴めるのではないのか、という気がしないでもない。原初的な力の塞(そく)、としてある「宗教的」なタブーを乗り越え、おそらくは奔馬であろうそれを乗りこなす者にこそ未来は約束されているのではないか、と思うのである。また、そもそもこの馬は、そこから落ちて死ぬ価値のあるものではなかったか?とも思うのである。

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