短歌時評 第72回 牧野芝草

短歌の新しい「場」としてのツイッター —−内山晶太『窓、その他』に寄せて

内山晶太の第一歌集『窓、その他』(六花書林)が刊行された。発行元の六花書林アカウント(id: @rikkasyorin)から予告ツイートが8月28日8:39(註1)、著者本人のツイートで完成と発送の予告がなされたのが9月6日20:04(註2)、一番早い人の手元に歌集が届いたのが9月11日だった。その前後から、歌集を心待ちにするツイートが増え、歌集を入手したひとたちがそれぞれ好きな歌をツイートする「内山晶太祭り」が始まった。

詳細は花笠海月(id: @hanaklage)によるまとめ(註3)をご参照いただきたいが、ツイッターにいる歌人たちがどれほどこの歌集の刊行を待っていたのか、そして入手してからどれほど喜んでこの歌集を読んだのかがまとめられたツイートのひとつひとつからびしびしと伝わってくる(この流れはツイッターにとどまらず、砂子屋書房の一首鑑賞コーナー「日々のクオリア」(註4)においても、9月14日(註5)〜9月19日(註6)の4日間にわたってこの歌集が取り上げられた)。

これまでもツイッターでは笹井宏之の命日の前後に「#sasai0124」をつけて笹井の歌がツイートされたり、大雪で不通になった特急に乗っていた島なおみを励ますツイートが「#shimanaomi」をつけてツイートされたりしている(註7〜10)。今回の内山晶太祭りもその流れと言えるだろう。

   *

さて、ツイッターは140字という文字数が特徴として紹介されることが多い。しかし、筆者は (1) 受動性、 (2) リアルタイム性、(3) 相手との距離の近さ、の三つがツイッターの特徴だと考える。従来のblogやmixiの場合は自分でそれぞれのサイトを巡回する必要があったが(その手間を軽減するためにアンテナやRSSというしくみが開発・利用されていたが)、ツイッターの場合はひとつの画面にいろいろなひとが発信した情報が集積されるので、自分がフォローしているすべての相手の発信した情報を「ツイッター」というひとつのサイトにアクセスするだけでリアルタイムに読むことができる。

ツイッターがテレビだとするなら、このテレビはそれぞれのユーザ専用のチャンネルしか映さない。そして、そこに流れてくる情報はユーザ自身が選んだスポンサー(=フォロワー)の発信する、コマーシャルのように短い情報だけだ(どのスポンサーを選んでいるかがユーザごとに異なるので、ユーザ専用のチャンネルになるということでもある)。

一方、ツイッターがテレビコマーシャルと異なるのは、ある情報がツイートされたときには、それを発信したひとが今まさにその人自身のツイッターの画面を見ているというリアルタイム性、そして、多くの場合は(それがかなり有名なひとのアカウントであっても)本人が自分でツイートしているということだ。

さらに、ツイッターでは、情報の発信者に対して直接コメントすることの抵抗が少ない。オバマ米国大統領のツイートに返信するのは、ホワイトハウス宛に電子メールを送るよりもずっと気軽で直接的だ(オバマ大統領のアカウント id: @BarackObama はスタッフがツイートしていることが公言されているけれど)。子どものころに読んでいた本の作者や芸能人のツイートに返信することも気軽なら、そのツイートに相手からさらに返信が(数分以内に)届くことも稀ではない。この「距離感の小ささ」は、しくみとして返信しやすい(メーラーを立ち上げたりしないで済む)ことに加え、相手が画面の向うにいると実感できること、返信も140字以内に限られていること、によるのだろうと思う。

もうひとつ、ツイッターで重要なのはリツイート(以下「RT」)という機能だ。ふつう、あるツイートはそのツイートを書き込んだ人をフォローしているひと以外には配信されない(探したいひとのアカウントがわかっていれば、自分のアカウントを持っていなくても検索できる)。しかし、そのツイートを見たひとがRTすると、RTしたひとのフォロワー全員にもとのツイートが再配信され、同じツイートを受け取れるひとが爆発的に増大する。先ほどのテレビのたとえで言えば、気に入った・気になったコマーシャルを受け手が勝手に再発信できるということだ(註11)。

例えば、錦見映理子が発信した

少しひらきてポテトチップを食べている手の甲にやがて塩は乗りたり/内山晶太『窓、その他』  #内山晶太祭り(註12)

 一段落したのでやっと祭りに参加できた。誰にもとられたくなかった猛烈に好きなポテチの塩の歌。。。すばらしすぎる。塩の粒がきらきらしてる。(註13)

を筆者がRTした場合、筆者をフォローしているひと(=フォロワー)全員に同じツイートが再発信される。

仮に筆者のフォロワーが100人いて、そのうち短歌や俳句などの文芸に関係しているひと (A) が50人、別の話題Bで筆者と関係があるひとが30人、さらに別の話題Cで筆者とつながっているひとが20人だったとすれば、先ほど引用した二つのツイートはBとCの50人にも届く。この50人はおそらく内山晶太や錦見映理子を知らないだろうし、現代短歌にまったく縁がなかったひとばかりだと思うが、そのひとたちもこの歌と錦見の感想を目にすることになる(より正確に書くなら「目にする<可能性が増える>ことになる」)。

そして、もしこの(上の例でいうBやCの)50人のなかのだれか(たとえばB(n)さん)が

少しひらきてポテトチップを食べている手の甲にやがて塩は乗りたり/内山晶太『窓、その他』

を「いいなぁ」と思ってさらにRTすれば、今度はB(n)さんをフォローしているひとたちに同じ歌が伝播していく。当然、伝播速度や伝播する範囲(人数)はRTしたひとのツイッターの使い方やフォロワーの数に依存するが、この伝播のしかたは、受動的で不特定多数の相手を受け手にし得るという点で従来の「短歌との出会いの経路」とはまったく異なる。テレビのたとえで言えば「テレビコマーシャルで短歌に出会うという出会い方が可能になった」という言い方もできるだろう。

そして、このことは、単に「今はまだ短歌に出会っていない、将来の歌人」が短歌と出会う場/可能性が増えたということにとどまらない。それ以上に重要なのは、短歌が「これまで短歌と出会う機会のほとんどなかった、実作者でない読者たち」と出会う場/可能性を得た、ということなのだと筆者は思う。

今後、短歌がツイッターという場でどのようなひとたちとどのように出会うのか、そしてそうやって短歌と出会ったひとたちがどのように短歌と関わっていくのか、筆者自身を含め、現在短歌に関わっている人たちがどのような「コマーシャル」をツイッターというメディアに発信していくのか。ツイッターを意識的・自覚的に使いながら、長期的な影響をしっかりと見ていきたい。

   *

最後に、『窓、その他』からたんぽぽの歌4首を引く。この歌集には植物の歌が多いが、4首あるたんぽぽはすべて心象/シンボルとしてのたんぽぽである。これらのたんぽぽは、内山のイメージする「善なるもの」の象徴であるようにも思える。この、しずかでほんのりあたたかい世界に浸れることをありがたく思う。

  たんぽぽの河原を胸にうつしとりしずかなる夜の自室をひらく
  たんぽぽはまぶたの裏に咲きながら坐れり列車のなかの日溜まり
  かけがえのなさになりたいあるときはたんぽぽの花を揺らしたりして
  たんぽぽを愛さず 愛さるるのみの寒き男に寒き霙を

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註1:bit.ly/Voa2aP
註2:bit.ly/Si3gF3
註3:http://togetter.com/li/371466
註4:bit.ly/xc0TRm
註5:bit.ly/SmkXhn
註6:bit.ly/RIShVu
註7:bit.ly/fBNP7x
註8:bit.ly/xU7vnL
註9:bit.ly/Up6dUZ
註10:松村由理子「論考:未来展望 ITと歌の豊かさを両立させたい」(角川書店『短歌』2011年11月号p.164-7)
註11:ツイッターとRTの機能は、昨年のチュニジアやエジプトの革命、「ウォール街を占拠せよ!」がそうであったように、あるいは現在進行形で毎週金曜日の夕方に行われている首相官邸前反原発デモがそうであるように、ときには数万人にのぼるひとたちがひとつの目的のために同じタイミングで自分の意志で行動するという、これまではなかった動きを生み出した(適切なタイミングで注目されやすく共感されやすい呼びかけを行えば、数万人を動かすことも可能になった、とも言える)。その一方で、デマも同様に拡散させてしまう可能性があることには注意が必要である。このしくみをうまく使えるかどうかは個々のユーザのリテラシーにかかっている。
註12:bit.ly/TpOL3k
註13:bit.ly/NMv965

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