短歌をカネにかえるには-いわゆるひとつの<にわとりとたまご>について
10月13日に阿佐ヶ谷ロフトAで開催された「短歌をカネにかえたくて―『もしニーチェが短歌を詠んだら』重版祈念イベント」に参加した(註1、註2)。中島裕介の『もしニーチェが短歌を詠んだら』(角川学芸出版、以下『もしニー』)を土台に「短歌などのマイナージャンルでお金を得るには何が必要なのか」を議論するトークイベント(公開ブレインストーミング)である。前半は佐々木あららと中島裕介の対談、後半は角川学芸出版の石川一郎(『もしニー』の企画者)と吉祥寺・BOOKSルーエの書店員である花本武を加えてのディスカッション(+フロアからの発言)という構成だった。
このイベントで特に印象に残っているのは以下の発言である。
(1) ビデオレターでの枡野浩一の
・ 歌集に入れる歌の数が多すぎる
・ デザインに工夫がたりない
・ 作者がもっと前面に出るべき(どんなひとなのか、写真を出してビジュアルでもアピールする)
・ 所収する歌の選択やデザインに作者以外の意見をもっと入れるべき
(2) 花本の
プレゼント需要(ひとにあげて喜ばれるもの)というのはすごい大事。だからデザインにこだわって欲しい。光森さんのとか笹井さんのとか、いいデザイン。著者のことを知らなくても手に取ると思う。
1500円を越えないというのは一つの基準。小説なら一日では読み終わらないのに、短歌にこの値段、とか思っちゃうので、売りやすい値段というのもある。
また、田中槐は事前に
あいかわらず歌集を出版するには多額なお金が必要なわけだし、従来の方法では歌集を出せないひとは多くいて、少しでも安価に出す方法を考えたり、なんとか「売れる」本を出したいと願うことは当然で、そういう試みはどんなに失敗したとしても繰り返されるべきだと思う。
贈答文化はありがたいシステムだと思う一方で、若くて無名でお金はないけれど意欲のある若者のところに歌集が贈られてくることはあまりない。そして「身銭を切って欲しい歌集を買うことにこそ意味がある」みたいなことを、毎日郵便受けに歌集が何冊も贈られてくる先輩歌人から言われたりするのだ。
(略)
美しい贈答文化の円環がとりこぼすものにも目を向けること。たまには短歌販売促進運動みたいなことがあってもいい。
とブログに書いていた(註3)。
書店員の意見を聞く機会がこれまであまりなかったので花本の視点は特に新鮮だったし、一般の書店の棚に歌集が並んでいる(短歌に関係していないひとがふらっと歌集を手にとったり買ったりする)ことを筆者がそもそもイメージしていなかったことに気づかされて衝撃をうけた。
一方、製作側の石川一郎(角川学芸出版)からは、「部数が4000-5000部でないと営業的には出版できない」という発言があった。もし歌集をその規模で売れるようにしようとするなら、当日の最後に中島が言ったように「パイを大きくすることを考え」る必要がある(註4)。
その場合、短歌というジャンルが克服しなければならない課題は大きく分けて三つあると筆者は考える。一つは体質(意識)の問題、二つめは表現の問題、三番目は手段の問題である。
体質(意識)の問題は、総合誌の年鑑には主な歌人の自宅の住所や電話番号が開示されていることに象徴されると筆者は考える。この慣習は短歌が結社を中心とする歌壇の中で郵便を土台にして行われてきたことを反映してのものだと筆者は了解している(そして、この情報があるからこそ前述の献本贈答文化が機能し得ている)。
しかし、インターネットの興隆や個人情報保護法施行以後、個人情報に関する意識が大きく変化しているにもかかわらず、一般の書店に流通する雑誌に個人情報そのものが掲載され続けているのは「ここを見るひとにおかしなひとはいない=ごく限られたひとしか見ない」ことが前提となっているからではないか。そして、その前提は、短歌総合誌の出版社(≒短歌界)自体が特定の相手だけを対象にして発展してきており、今も(そしてこれからも)読者層を拡大することにはあまり関心がない(新しい、不特定多数の読者を本気で獲得しようとしているわけではない)、というメッセージを新しい読者になりうる「限られたひと」の外側に対して無意識に発してしまっているように筆者には思える。もし短歌界がパイを広げようとするなら、最初に変えるべき(+変えられる)ポイントはその意識だろう。
二つめの表現の問題については、佐々木あららがパズル作家だったときにパズル雑誌の編集者に言われた「難しくしない」ということが手がかりになるように思える。曰く、(特に若い)パズル作家は解き手(=消費者)を想定せずにどんどん難解なパズルを作ってしまいがちだが、パズル雑誌の編集者(=売り手)からすると消費者が限られてしまうものでは困る、ということだ。解くのが簡単であることが求められるというわけではなく、「解けそうに思える」ように作る、とか、「パズルを解く過程を楽しめるように(=作成者の作成意図が解き手に伝わるように)」作る、ということを要求された、という趣旨だと筆者は理解したが、同じことは短歌にも言えるのだろうと思う。
難しくしないというのは簡単だということでは決してない。簡略化・抽象化・模式化して平板にするのではなく、きっちりとした構図で立体的に描写するとでも言えばいいのだろうか。よりわかりやすく平明に表現することは(ここで改めて言うまでもなく)容易なことではない。しかし、そこをクリアせずにより広い層の読者に訴えることは不可能であるように筆者には思える。
一般の読者に受け入れられ、彼らの選択肢に「歌集」というジャンルが追加されるためには、読み解かれないことをもって作者が満足するような(=読み手に対する詠み手からの挑戦状のような)難しい歌を提示していては不十分である。もしかしたら黒帯級のような意味ではそのような難解な作者の存在も許容されるのかも知れないが、その場所にいることを許容されるのは同時代にたかだか一人か二人だろう。
三つめの伝達手段の課題は、イベント当日の議論でもあった通り「幅広い読者層にいかにして短歌という世界・ジャンルをアピールするか」だ。筆者が理想と思うのは、石川美南の作品が柴田元幸の編集による雑誌「モンキービジネス」に掲載され、連作「眠り課」が年刊日本SF傑作選『超弦領域』(2009年、東京創元社)に所収された例である。これは、石川美南が上述の三つの課題のすべてについて、継続的に意識的かつ戦略的に地道に活動してきたことの成果であり、「パイを増やす」ことに向けた成功事例のひとつであったと言えるだろう。ただし、これはあくまでも石川美南の地道な努力と精度の高い活動があってはじめて実現したことであって、誰でもが一朝一夕にできることではもちろんない。だからといってこのような方向で努力する歌人がゼロでいいとか、石川美南が代表してやっているからそれで十分だ、ということでもない。
最後に残るのは歌集の発行部数の問題だ。「短歌が一般の読書人に読まれないのは歌集の発行部数が少なくて一般に流通していないから(目にする機会が少ないから)」「歌集は売れない(読む人が少ない)から部数が出ず、採算が合わないから自費出版」「自費出版だから部数を刷れない」という悪循環を断ち切るためにはどうしても部数を増やすことが欠かせない。この費用(=初期投資)をだれが負担するかは鶏が先か卵が先かという議論になるポイントだと思う。
しかし、これが短歌というジャンルのパイを拡大するために必須の過程であるなら、目利きの力と売り込みのノウハウと投資する財源をもつ出版社と編集者が本当に広く一般の読者につながり得る歌集、歌人、作品を厳選し、一般に対して継続的に売り出すことこそが出版社・編集者の本来の仕事ではないのか。すべての歌集、すべての歌人に対して同じことがなされるべきだとは言わない(筆者がその対象だと言いたいわけでもない)が、ジャンル全体が衰退していくのを坐して待つのか。一般の読者につながる作品と、短歌界での評価が高い作品が異なるのだとしたら、そのずれをずれのまま放置しておいていいのか。『もしニー』はニーチェのフレーズを短歌に翻訳することでパイを拡大しようとする企画だったが、短歌自体の力と工夫でパイを拡大する道があるのではないか。そんなことを改めて考えさせられるイベントだった。
註1 阿佐ヶ谷ロフトAイベント紹介
註2 イベントに関するTogetter
註3 ブログ、槐の塊魂のイベントについての記事
註4 当日の議論では、佐々木がやっている電子書籍での歌集の作成・販売、アクセサリーやファッションアイテムへの転用・流用(?)による読者層の拡大などについて意見交換があった。前者は紙媒体にしないことで製作コストを下げ、低価格で部数を制限せずに作品を提供できる反面、特定のデバイスが必要だったり頒布・流通過程が一般的でなかったりするなどのハードルが(まだ)ある。今後、種々の課題が解消されていけばひとつの解決策となる余地はあると思う。
一方、後者は、「これまで短歌を知らなかった層に『短歌』というものをアピールする」ことに本当につながるのか(「短歌」というジャンル自体をアピールすることに本当になるのか、最初のインパクトは大きいかもしれないがそのあとをどう展開させるのか、最終的に収入を得られれば(アクセサリーなどの売り上げで得た収入で歌集を作れれば)歌集単位で消費されなくてもよいのか、歌集として伝えようとするならアクセサリーでのアピールから歌集を買うという行動にどのようにつなげていくのか)という点で、逸脱が大きすぎるように筆者には思える(筆者の固定観念が強いだけであればよいのだが)。