短歌時評 第78回 錦見映理子

歌の力を生むもの

第58回角川短歌賞受賞の藪内亮輔「花と雨」を読んだ。選考委員四名すべてが最も推薦する一篇に選び、圧倒的な評価を得て受賞に至った50首である。

一連のテーマは、身近な人の死である。死にゆく人との関係やその病気の詳細は書かれていない。パーソナルデータはごくわずかで、にもかかわらず(そのために、かもしれない)歌の主体や死にゆくひとの存在の手触りのようなものが強く響いてくる。選考座談会で米川千嘉子が指摘しているように、「この一連は具体的な物があまり出てこ」ず、「雨と花と光というような、ふつうは淡くなってしまいそうなものが場面の大多数を占め」ている。
にもかかわらず、強く印象に残る歌が多いのはなぜだろう。

冒頭の数首を読むと、一首のなかに数方向への運動と、それに伴う速度の変化があることに気づく。わかりやすい語が選択され、一見さらりと詠んでいるように見えるが、一首一首のなかにある動きは多様で、精緻に作られている。情景の中の視覚的な動きと、速度の緩急による韻律のうねりの両方が、巧く合わさって効果を挙げている。
これらの歌の力がどのように生み出され、それによって読者に何が伝達されるのか、見ていきたいと思う。
まず冒頭から十首を、順に挙げてみる。

  傘をさす一瞬ひとはうつむいて雪にあかるき街へ出でゆく     

「傘をさす」「うつむいて」「出でゆく」という三つの小さな動きが一首のなかでなめらかにつながり、それぞれの動き方が初句から結句までのうねりを生んでいる。
傘をさすという上方向の動作、うつむくという下方向の動作、出てゆくという横方向の動作の連続の中で、「一瞬」のうつむきが歌の速度を変えているのに注目したい。うつむく動作に入る直前に置かれた「一瞬ひとは」の二句目に、転換と時間の溜めがある。わずかな空白があった直後に、うつむく動作による暗転があり、すぐに明るい街という広い空間へと大きく動いていく。この一瞬の暗から明への動きの緊迫感が歌を引き締め、うねりを生み、それが読後の心地良さにつながっている。何ということのない情景なのに、かすかな心理的体感的ゆさぶりがあるのだ。

  わが肺にしづかな(つう)をおいてゆく冬の空気かあたたかくはく

冷たい空気を急に吸い込んだときに、少し痛みのようなものを肺のあたりに感じたのだろう。この歌にも、息を吸い、吐くという小さな運動がある。一方向でない動きが一首のなかにあることに留意したい。
「冬の空気か」の「か」の不安定さに注目する。痛みの原因が「冬の空気」だと断定しないことで軽い不安定さを生み、「あたたかくはく」という明るく安定感のある結句の直前に、ゆらぎを作っている。

  きらきらと波をはこんでゐた川がひかりを落とし橋をくぐりぬ
  鉄塔の向かうから来る雷雨かな民俗学の授業へ向かふ
  雨の向かうに出てゐる筈の牡牛座の(なづき)は星でできてゐること

一首目は、川の一方向の流れの途中に、「橋」というポイントを作っている。「川」を受ける格助詞に「が」という強い音を選択していることが重要で、初句の「きらきらと」という軽く浮き上がりがちな語からの流れに、ここで錘を下ろしている。ここでもまた「ひかりを落とし」という暗転の直前に、「が」という転換点を作っていることに注目しておきたい。水平方向の流れの中心あたりに、下方向の「落とす」で動作を中断し、明るいものの流れに暗さをさしはさんでいる。これらの効果により、川が流れていく動きのうねりを、読者は体感する。
二首目の空間把握は広い。鉄塔の向こうから移動してくる雷雨、それに向かうように授業のために校舎へ向かう主体、という矢印がぶつかりあうような動きがある。「雷雨」という存在感の強い言葉を「かな」という助詞で軽く受けて一呼吸置いてから、主体の体を動かしているのも効果的だ。
三首目はさらに主体の視線は距離を伸ばし、雨の上の雲のさらに上にあるはずの、見えない牡牛座に向かっている。牡牛座の脳が星でできているという把握が秀逸で、連作中の五首目におかれたこの歌が、連作導入部のピークになっている。

  話しはじめが静かなひととゐたりけりあさがほの()のあはきあをいろ
  息は生き、さう思ふまで苦しげに其処にゐるだけなのにくるしげに
  あなたには深くふれないやうにして雨のくだける夕ぐれにゐる
  蛇口からほそい光を出しながらあなたは肺のくるしさを言ふ

連作中の六首目で、目の前に他者が初めて登場し、そのひとがどうやら肺に何らかの問題を抱えていて、呼吸が苦しいのだということがわかってくる。他者が出てくると、歌の表情は少し変わる。
上の一首目は、「話しはじめ」と「あさがほの裏」という合わせ方が巧みである。構造に目新しさはないが、「あ」音の反復によるリズムのうねりが心地よい。
二首目は、読点で分断され、表記を変えて「いき」と「くるしげに」という言葉が反復され、リズムも乱れている。呼吸のスムーズな動きは感じとれない。歌の自然なうねりを心地よく感じてここまで読んできた読者は、この歌で初めて停滞する呼吸の苦しさを実感する。
三首目は相聞的な気配もあってとても好きな歌なのだが、作りとしては甘さのあるところだろう。上句の淡い関わり方の選択を下句の雨の強さで受けるという、バランスのとれた歌である。こうして他者を前にするときに甘みや若さがのぞくところは、全体で見ると魅力になっている。
四首目の「肺」は、先に出てきた「わが肺に」の歌の「肺」とひびきあう。それにより、他者の痛みや苦しみをさりげなく自己に重ね、読者も気づかぬうちにそれを共有することになる。この歌では「光を出しながら」に注目する。ここで「光」とは、蛇口から出る水であると同時に、ほそい喉から吐き出される息、さらには命のようなものにまで触れる喩になっている。「出すように」ではなく「出しながら」であることが重要で、実際に蛇口をひねったりしながら苦しみを伝えている誰かが目の前で動いている実感が、強く読者に伝わってくる。

  春のあめ底にとどかず田に降るを田螺はちさく闇を巻きをり

この歌では「降る」の後の「を」の働きに注目したい。この「を」は接続助詞だろうが、順接と逆接いずれの意味も含んでつなぐような働きをしつつ、詠嘆的に結句にまで響いている。この「を」を転換点として、田の表面あたりまでの景色が、水底の田螺がいる場所へと移動している。田螺が水の底で小さい命を凝縮させるように「闇を巻」いている上に、雨が長い時間をかけて包むようにやわらかく降っていることが感じられ、届かないことの慰めのようなものを受け取れる。この歌のすぐ前まで呼吸のくるしさに直面していた読者は、この歌で不全であることへの微かな慰めを得て、ほっとする。田螺という小さなものの命がここに置かれていることも効果的だ。

タイトルにもあるように、この一連の主調を作っているのは雨である。歌に動きや速度の緩急があるのは、雨という連続した動きのあるものを景色のなかに入れたためであり、その結果、歌にうねりのようなエネルギーが生まれている。多様な雨の降り方や空間の中の光の動き方をよく見つめ、その在りように親和を感じる作者の感性や心情が、死にゆく人とのかかわりによってさらに鋭く際立つこととなったのだろう。雨によって心が引き出されているようにも思える。主体の心情のみならず、まるで雨の感情というものがあるかのごとく、情感のうねりを読者に伝える媒介としての、優れた雨の歌が多数ある。雨という淡い言葉自体ではなく、その在りようを歌の調べに移しかえたことによって、一連が際立つものになっている。

  雨といふにも胴体のやうなものがありぬたりぬたりと庭を過ぎゆく
  電車から駅へとわたる一瞬にうすきひかりとして雨は降る
  雨はふる、降りながら降る 生きながら生きるやりかたを教へてください

雨にも胴体があるという発見と、その体の重みが実感できるようなオノマトペの面白さ。駅と電車のすきまに降る雨を「うすきひかり」とした秀逸な把握。そして三首目の切実な歌は、雨が降ることと自分の生を重ねることができるほどに雨というものを近く感じ、見つめて、多くの歌を作ったために生まれたのだと思う。

 
雨の歌ではない秀歌も挙げる。

  牙のやうな炎を()けて水を煮るわたしはわたしの飲食(おんじき)のため
  炎であればもつとさびしい桜から鳥がとびたつ花穂をゆらして
  どの(いを)のしたにも皿が敷いてあり余白にくらく顔はうつりぬ
  墓地に立つ断面あまたそのひとつにましろき蝶の翅がとまりつ

すべての歌を挙げてしまいそうになるほど、このような良い歌が多く、座談会で選考委員が銘々に○をつけた歌をどんどん挙げていくだけの絶賛コメントになっているのも頷ける。
「大型新人の登場!」と角川編集部が表紙に記したのも当然の作品なのだが、新人といえば「短歌研究」11月号で米川千嘉子が「昭和の新人、平成の新人」と題した文章で今の新人についてこのように書いていた。

新人は少なからず登場しているのに、たしかな代表歌をもって思いだされる作者が少ないとも感じる。現在の短歌がいわゆる名歌や秀歌性から少し離れた場所で多く作られているのはたしかで、そのことと作品を以て記憶される新人が少ないことは無関係ではないが、しかし、イコールでもないだろう。

藪内亮輔は京大短歌会と塔短歌会に属し、同人誌「率」にも参加して優れた仲間や先輩たちに囲まれており、おそらくさらに巧みな歌を作っていくことだろう。将来が約束されたような場に立ち、周囲の期待も大きいと思われる。
しかしだからといって、世代や時代を超えて記憶に残っていく「たしかな代表歌」をこれから生むことができるかどうかは誰にもわからない。

米川は先の文章で、「何首かの代表歌を以てある程度広い層の読者に批評され鑑賞され共有されることで、新人の作品とその個性は短歌の新しい豊かさとしてたしかに蓄積されてゆくのであり、それによって新しさは同時代以降のより広い世代の作者に直接間接の影響を与えてゆくはずなのだが、そのあたりの新しさの流通とそれがもたらす豊かさの実感があまりないのがもどかしい」と述べており、これは安易に言えばジャンルの停滞なのかもしれない。
にもかかわらず藪内亮輔の「花と雨」や、同じ『短歌』11月号の大森静佳の優れた一連を読むと、停滞しているようには思えなくなる。
だからこそ、「しかし、だから今後も同じように、短歌が残る、と言えるだろうか」という米川の一文が非常に重く、自分の体の深くにまで響いてくる感じがする。

  白藤のせつなきまでに重き房かかる力に人恋へといふ           

米川千嘉子(『夏空の櫂』昭和63年)

  〈女は大地〉かかる矜持のつまらなさ昼さくら湯はさやさやと澄み

総合誌の役割はより大きくなり、その、場としての機能や内容は、短歌の将来を左右するといっても過言ではないのではないか」と米川は結論あたりで述べている。
「大型新人」という冠を付した藪内亮輔を、角川『短歌』編集部はいかにして育てていくのだろうか。新人賞発表作にすでに代表歌がみられた米川のような新人が多く出てきた頃から24年後の現在、新人賞を同じように毎年短歌総合誌が与えていけば自動的に時代に残る代表歌をもつ新人が生まれていくとは限らないように思える。
代表歌とは、今後どのような力の結集によって生まれるのか。どのような場で、どのように発表されるのか。
本人の才能や努力、また結社や周囲の環境による場の力。もしもそれらだけでは生まれないのだとしたら、今後は紙だけではなくなり多様化するだろう媒体での発表の場の変化が、歌そのものの変化に作用する可能性もあるのかもしれない。
藪内のみならず、学生短歌会から多く出てきている新人の歌が大きく飛躍する場は、あるのだろうか。あるとしたらいったいそれはどこなのか。
これから藪内亮輔が、「何首かの代表歌を以てある程度広い層の読者に批評され鑑賞され共有される」新人となる場を、ぜひ見たいと思う。

(プロフィール)
錦見映理子(にしきみえりこ)
1968年東京生まれ。未来短歌会所属。未来評論エッセイ賞。歌集『ガーデニア・ガーデン』。
http://www.ne.jp/asahi/cafelotus/eliko/ 

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