短夜のエクリチュール 五十子尚夏
暫くの驟雨に崩れゆくシャツの襟を立たすも艶なる夕べ
雑居ビルを出でし男は雨のなかへジェダイのごとく消えてゆきたり
外つ国の酒に酔いつつカーチェイス・シーンばかりの映画は流れ
スコッチを傾けている女ふと孔雀のごとき横顔をせり
風にヒースクリフの声を聞く夜のまやかしなるか喉の渇きも
豊かなる黒髪なればカラヴァッジオの青年なべてなまめかしかる
沙羅双樹というらしき花わたくしの昨夜の夢のなかに咲きおり
わらった、跳ねた、死んでしまった、殺されてしまった、夏のクラムボン
子の刻の鏡のなかに似姿を残して浮世のバレリーナ去る
これはわたしの記憶ではなく薔薇という螺旋の裡に崩るる時間
チューリング・テストのふるいに掛けられてわたくしはまだ人間でない
霧の夜の夢かあるいは夢の夜の霧かもしれず蜘蛛の巣を払う
櫛というさびしきかたち思うとき仮名にひらきてゆうぐれは来る
ロンドン橋落ちた落ちたと少女らの声を揺らして夏は遠のく
遅ればせながらの先をそういえば聞かずじまいの短夜にいる
五十子尚夏(いかごなおか)
1989年滋賀県生まれ。
2015年より短歌をはじめる。歌集に『The Moon Also Rises』(書肆侃侃房)