池澤夏樹は、1996年刊行の『池澤夏樹詩集成』のあとがきを「詩が書けなくなってずいぶんになる」
と始めています(*1)。「ぼくが書きたかった思いは詩という形式にそぐわなかったのだ」
というのがその理由なのだそうです。
現在の池澤夏樹の主な仕事は小説であると考えるのが妥当でしょう。実際に、2001年の詩画集『この世界のぜんぶ』以降は詩集を出版していません(*2)。しかし、現在もカヴァフィスの翻訳連載など、詩にかかわる活動も継続して行っています(*3)。
第一詩集『塩の道』に収められた詩のタイトルには、「ティオの夜の旅」や「真昼の死」など、初期の小説を髣髴とさせるものが見受けられます(*4)。こうした点から、同じモチーフ、あるいはイメージを表現する手段を模索していたことがうかがえます。
芥川賞を受賞した小説『スティルライフ』の文章は、「詩的」であることが取り沙汰されました(*5)。小説として読むには粒度の高い、しかし詩としては多少粗い、その揺れ幅のバランスが、池澤のことばの美しさなのではないでしょうか(余談ですが、筆者は日ごろ、川上弘美や堀江敏幸、松浦寿輝にもみられる、「詩と小説のあわい」に心地よさを感じています)。
池澤の詩の特色といえる水平方向への雄大な広がりは魅力的です。しかし、実は垂直方向への伸び感も、よさがあります。天の高さ、海の深さ、あるいは過去―現在―未来の時間軸を手にとるように見せてくれるように思うのです。
例として、上下運動の描写が見事な「星間飛行」から最後の二連を引用します(*6)。
時が降ってくる
粒子を気取り波動をよそおい
ポテンシャルの壁をすりぬけ
真空と相互作用を管理しながら
沈黙の雨となって無方の宇宙を
劫初から週末まで潸々と洗いつづけ
存在を濡らし続ける水時計
永遠の落下線をたどるその水滴と共に
なにげなく目の前をとおりすぎる
小さなときの粒子と共に
俺は限りなく沈んでいる
この下降感 ああ
死んだのか
俺よ?
少々かたい表現の中で最後に自身の存在の如何を問うて詩は閉じられます。田村隆一が「ぼくは言葉の中で死ぬ」と言い切ったのとは異なり(*7)、存在は揺らいでいます。
田村隆一と池澤夏樹といえば、『この世界のぜんぶ』に「詩人が死んだ日にも ――娘に」という作品があります(*8) 。「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」
という有名な出だしで始まる田村の「帰途」が(*9)、いわばパラドキシカルに言葉への愛を語るのに比べ、池澤のこの短い作品は「『言葉なんかおぼえるんじゃなかった』/と書いた詩人が死んだ日にも/おまえは着々と言葉をおぼえていた」
との引用から書き出し、言葉を覚えつつある娘を「帰途」に照射させるようにしながら、言葉の大切さをやさしく語りかけてきます。
池澤夏樹の詩には寛大さがあります。実際は脆さの裏返しなのかもしれません。包容力に長けていても、戦慄させられるような修辞に溢れたものではないかもしれません。しかし、読み進めるうちに、そんなことはどうだってよくなる……それが池澤夏樹の上手さであり、惹かれる理由なのだろうと考えています。
*1 池澤夏樹『池澤夏樹詩集成』書肆山田、1996年。
*2 池澤夏樹『この世界のぜんぶ』中央公論新社、2001年。
*3 2012年8月現在、『こころ』(平凡社)に「カヴァフィス全詩─訳と注釈の試み」、『図書』(岩波書店)に外国詩を題材にしたエッセイを連載中。
*4 それぞれ『真昼のプリニウス』(中央公論社、1989年)、『南の島のティオ』(楡出版、1992年)などに共通した語句。
*5 『スティルライフ』(中央公論社、1988年)この小説や池澤夏樹の詩をめぐっては、小池昌代「かたまりの塩」(『文藝 2011年春季号[池澤夏樹特集] 』河出書房新社)がある。
*6 「星間飛行」上掲『塩の道』所収。
*7 田村隆一「細い線」(『四千の日と夜』所収)の最終行。
*8 「詩人が死んだ日にも ――娘に」上掲『この世界のぜんぶ』所収。
*9 田村隆一「帰途」(『言葉のない世界』所収)