「犬を打つ人」 平居謙
河原で犬を打つ人がいた
哀しい声が
耳に響いた
何かの芸を仕込んでいるようすで
仲裁するのも駄目だった
その夜、夢を見た
矢鱈に長い鉄砲を担いで
犬の軍隊が
行進を強いられている
河原で犬を打っていた人が
大声で号令をかけている
僕はなんだか涙目になった
今度こそはというような思いで
僕自身、鉄砲の玉になって
その人の左目の中を射貫いていた
『太陽のエレジー』(草原詩社、2012年6月30日刊)より
平居謙の詩は掲出の「犬を打つ人」もそうであるように、たいへん分りやすい。1961年京都生まれの、女子大の先生であるのに、理屈っぽいところが全然ない。創作の根源には関西知識人特有の反骨的理論家が厳として存在していることは言うに及ばないのだが。だからこの1冊の詩集を読み切ることは、いかに楽な読書走行を許されているとはいえ、重い。荒っぽく云えば、叙情より優先しているものの重さとでも云おうか。平居は現代の時勢の急流に臆することなく飛び込む。
だから時代の情景描写の分量が多い。年齢的にも最も知的にvigorousな時期であることもあるだろう。その中に気難しい自我を掉さしながら、けっして時代から離れて孤独に籠ろうとはしないことは掲出の詩からも明らかである。橋の上で行列を横切った子供を斬り殺した藩主の権力を目のあたりにしたことが坂本龍馬の脱藩のきっかけだったというが、暴力支配の長い歴史にひとりの自我などひとたまりもないことを良く知っている意識家の立ち居が見える。
この現実と感受性のこすれあいのやるせなさ、平居の詩の位置はここにある。現実の専横に劣らず、感受性の気難しさも芯が強い。「バージンだった君が好き/上手な君はもっと好き」という「第4章 北長門バージンブルース」の序詞としてあげられたフレーズは詩人の本音をあますところなく表現しているように思われる。自分の本音が通る世の中であればいい、これは詩人にかかわらず息とし生けるもののたった一つの願いであるはずだからだ。