「十月の歌」 ヨシフ・ブロツキイ
VSに
雄ウズラの剥製が
暖炉の棚のうえに佇んでいる。
古時計は規則的に時をカチカチきざみながら
晩ともなれば皺のよった鼓膜を喜ばせる。
窓の外の樹木は陰鬱な蝋燭である。
海は四日間堤防付近で低くうなり通し。
じぶんの本を取り置いておけ、刺をとれ。
わが下着をつくろえ、電灯をつけないで。
髪の毛の金色ゆえに
部屋の隅は明るい。
(1971)
詩集『美しき時代の終焉』(1977年刊)所収 たなかあきみつ訳
ユダヤ系ロシア人であるためにスターリン体制から理不尽な迫害を受けたブロツキイの生涯と膨大な詩行に触れる時、12年若い世代である1952年生れのフランスの詩人ジャン=クロード・カエールの詩集『息の埋葬』(2005年刊)中の《時の流れを緩めるためにたえず書き続けなければならない。》というフレーズが否応なく浮かんでくる。カエールに於ける《時の流れを緩める》はブロツキイに於いて《一人の人間としての自己を維持する》にあたる。
ここ数年来、たなかあきみつ氏のたゆみないご訳業に触れて来て得た感想は、ブロツキイの生きながら書くという在りかたである。書くことは生きる支えであり、書くことがすなわち生きること。詩のテーマは?表現形式は?言葉の選択は?とかは全くの枝葉に見える。生きること=意識が働くこと=世界を見ること=言葉を発すること=書き付けること。《自己責任》ではどうにもならない出自と、《一人の個人》(ブロツキイは《私人》と言う)であることにもとずいて生きて行く軌跡を私たちは辿って行くのだ。
かならずしも楽しいとは言えない読みという伴走の合間に、上掲のような金色の安らぎのほのめく小品に行き当ってほっとする。詩的共感の瞬時の世界=まことの現実を共有するのだ。