日めくり詩歌 自由詩 鈴木一平 (2012/12/25)

季節の刃 中本道代

冬がおわるころ 
雨がふるようになる 
みぞれのときはかさがキシキシ音をたてる 
女は血を流しているとき 
ざんこくになり 
顔がはれる 
遠くをバスが走っていく 
運転手が帽子で顔をかくし 
乗客は窓にひたいをおしつけて陰気に走るバスだ 
うもれている刃のきれはしのようなもので 
空間はきずだらけだ

なんか、さいきん平仮名が苦手だ。感じの話だけれど、見え透いてしまうような平仮名の使い方が苦手になってきて、「そうか」と思うことがある。言葉の音や文字にこだわることに賛成しないわけではないけれど、好きだと思う範囲がズレているだけなのか、「平仮名は漢字よりも音に近い!」という言葉に対する違和感の延長で、その手の話か、と思っているだけなのかもしれない。まあ、じっさいにそういうことを言う人が多いのかどうかはわからないけれど。それでも、ぼくじしん漢字か平仮名かで悩む機会はけっこうあるし、いったい何に対して「そうか」と思っているのかも分からない。だって、すごくピッタリくる選択をしている詩はいいと思うし、すべてが平仮名で書かれている時は、そもそもべつの話になる。

ある箇所で書かれるものと、またべつの箇所に書かれるものとが空間をイメージできるように結びつく読み方ができた時、そこに空間が生まれているような錯覚を起こしてしまう。それは、書かれたものの中にすでに空間を含んでいるということかもしれない。とりあえずは二つ以上の組み合わせがあり、組み合わせのパターンしだいでは、個々の詩に独自な空間が無限に生み出せる。同じ時、ぼくじしんの頭の中にあるパターンを駆使して、見たこともない情景をイメージするだろう。情景をつくるかつくらないかは選択の問題ではあるけれど、詩の中で情景めいたものを組成されると、障害物の少ない(あるいは無限に障害物をつくり、回避と衝突を無限に操作できるような)奥行きがつくられる。というのをぼくは、あとどれくらい確認すれば気が済むのか分からない。奥行きを否定する態度も必要だと思う。

「女は血を流しているとき/ざんこくになり/顔がはれる」というのは、読んでいてすごくギクシャクした感じがあって、よかった。ギクシャクしていることの技術に驚かされた。改行の向こうが予想できないところに、詩を読む時の喜びを見いだしているからなのかもしれない。とくに「ざんこくになり」というのはなんとも変な感じでいい。対象の中に含まれる要素・性質がふくらんで、それが対象の全体を覆っていくのがよくわかる。たんに「女はざんこくだ」で意味が通っているのだけれど、改行するということがどこか、術部を主語の後ろに回ってグダグダと管を巻くような、遡及的な意味の成り立ち方を断ち切って、視覚の段階に言葉を引き寄せてくれるような強さがあるようにも思う。それはほとんど幻覚に近い何かであるのかもしれない。けれど、一方で「幻覚に近い何か」には、ぼくが見たいと思う夢の部分みたいなものを、正体の内にいくらか含んでいるのかもしれない。

また「ざんこくであり」で現れる夢を考える時、それは女の顔に含まれる細部、属性か要素のようなものかもしれない。「細部」について語る時、「そもそも細部とは何か」と思う。ある細部が書かれる時に、細部は全体よりも大きな場所を取ることがあるし、読み手の印象としても巨大になる場合が多い。当たり前の話になるけれど、細部とは普段、あまり人目につかない部分であって、それはたんに「細かい部分」と言っていい話ではなくて、対象から抽出する性質、全体から選ばれる要素において、それを見いだす視点がベタな物の見方とは異なる新しい視点、あるいは希少価値の高い視点が見るものを指すのだろう。このことがこの詩に関係あるのかどうかについては、個人の価値観によると思われる。そうした視点の持つ希少価値は、ベタな見方しかできない人にとっては、金では買えない生まれながらの才能のようにも感じられるが、人それぞれに適切な段階を踏めば学習できる。

「乗客は窓にひたいをおしつけて陰気に走るバスだ」という部分は、含まれているものが自分を含んでいるものになっている。そのねじれが繰り返しこの一行を読む作業を読者に強いる。小学生の時に辞書で言葉を引いて、説明文がまたべつの語彙をいくつか持っている。しかも、それらは同じ辞書に載っていて、さらに小さくいくつかの語彙を含んでいる、あるところで解説を足下に持っている言葉が、べつのところでは解説の中に含まれているので目まいを起こした。と書いてから、このことと、この詩のこの部分についてはあんまり関係がないな、と思った。それでも、そうした経験が強く印象に残っているせいなのか、含んだり含まれたりするある種の運動が、噛み砕かれずに紙の上に載っているのに憧れる。無意識に覚えてしまう言葉のパターンの穴を突くことで、ペンで書かれた腕が、自分を書いたペンを持つ腕を書いている構図を思い出すことができる。そうした事態は、絵がじっさいに書き、書かれる関係を紙の上で再生しているわけではないように、紙の上で踊る意味ではなく、読んでいるぼくの頭に渦巻く処理の問題だと思いたい。

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