日めくり詩歌 自由詩 岡野絵里子(2012/12/28)

わたしのマトリョーシカ 柴田三吉

青いエプロン、くりっとした瞳の、あどけない人形 
の中に、黄色いエプロンをつけた人形が入っている。 
その人形の中には、さらに小さな、赤いエプロンを 
つけた人形が入っている。どこまでも、どこまでも 
開いていくと、ついには豆粒よりも小さくなってし 
まうというけれど、最後の人形だけは、だれも見た 
ことがない。だれの目にも見えない。 
 
お腹のいちばん奥にうずくまり、すべての人形を操 
り、わたしたちに解けない笑みを投げつづける女の 
子。それが鉛のエプロンをつけたマトリョーシカ。 
母さんのお腹の中の卵よりも小さな子は、いのちで 
もないのにいのちのふりをし、二つに分かれ、四つ 
に分かれ、無限に分かれ、かわいいエプロンをつけ 
た姉たちを殺しながら飛び出していく。 
 
奔放で言うことをきかない、わがままな娘は、ちり 
ぢりになって野や山を駆けていくけれど、だれがお 
まえをとらえ。柩に納めるのか。それとも、この世 
界こそが、おまえの柩だとでもいうのか。それさえ 
まだ、おまえは小さすぎると言うだろうか。あどけ 
ない笑顔の底に埋もれた女の子。いつか、わたしを 
だきしめにくる、ちびのマトリョーシカ。

「三月十一日から」ジャンクション・ハーベスト 2012年

 マトリョーシカは木製の人形で、ロシアの民芸品だ。入れ子構造を持っていて、大きな人形が胴体の中に次々と小さい人形を入れていく。木の年輪はよく人生に例えられるが、マトリョーシカ人形も、幼女や少女をまだ身体の中に持っているような人を形容する時に使われる。

 この詩では、鏡の無限回廊のようにエプロンをつけた人形が続き、最後の人形は不可視の次元に到達している。存在だけが伝えられる伝説のようなものだろうか。

 そして人の身体の奥にも、鉛のエプロンをつけたマトリョーシカがいるという。女性の卵より『小さく、健康な生命のふりをし、分裂を繰り返し、限りなく増殖していき、健康な同胞を殺してあちこちに転移する。これはもう、癌細胞である。鉛のエプロンといえば、レントゲン照射の際、胎児等を守るために着る防護衣だが、癌細胞がそれを身につけているのがブラックユーモアに感じられる。

 私たちの身体は約60兆の細胞からできている。正常な細胞が分裂しつつ、身体の機能を健康に保っているのだが、細胞の遺伝子にコピー上のミスで傷がつくと癌化が始まる。1ヶ月に1回細胞が分裂するとすれば、約10年で1億個が集まり、ほぼ1センチの鉛のエプロンをつけたマトリョーシカができる計算になる。このマトリョーシカは限りなく増殖し、隣接する組織に浸潤し、血管を通って遠くの臓器に転移する。まさに「奔放で言うことをきかない」。

癌が恐ろしく感じられるのは、このブレーキのない増殖ぶりと、身体自身が要因を作り出す内因性の性質のせいではないだろうか。

 私たちは器である。マトリョーシカ人形が実は空洞の器であるように。私たちは自身の中に、ささやかな過去と現在を入れ、幸福と不幸を振って、それで世界を盛ったと思っている。だが何のことはない、ただの死の器だ。

 詩集「三月十一日から」は草野信子氏との二人詩集。震災という人間の思惑の外から襲って来る巨大な力についての詩のなかに、人間を内側から死に至らしめる最も微細な力を見つめた詩があることに感服する。大自然を悪者にして、被害を言い立てたとしても、自身こそが死を生み出し、抱え持った生きものなのだ。この視点を忘れないでいてこそ、時代の良心たる詩人だと思われる。

 それでも末妹マトリョーシカのイメージは可愛らしい。地上の人間を全て滅ぼしても、あどけなく笑っていることだろう。どうせ死ぬなら、可愛い少女に「抱きしめ」られて死にたいと思うかもしれないが、可愛い少女というものは、正体は癌細胞なのである。どんなに気をつけても足りないくらいだ。いや、案外美少女に振り回されるのは、甘美な体験なのかもしれない。作者が愛煙家でいるのは、その辺りをよく知っているからなのだと、つい思ってしまうのである。

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