サーマルヘッド 時間と脳内    中村梨々

0315jiyuu

サーマルヘッド 時間と脳内    中村梨々

好きで結婚した。好きだから、好きなので、好きに決まっているから。
なんと言い換えても好きなものは好きなのだからしょうがない。過去や
未来は念頭にない。一人の人間の中に、過去や未来が詰まっていたとし
ても、今、目の前の感情、言い換えるなら胸内の感情(感情は自分の身
体の外側にもあるんだ!)に動かされるのは人間としてはもっとも自然
な情動行為である。ドーパミンのおかげでめでたく結婚したものの、微
妙な意見の食い違いから喧嘩も生じる。喧嘩とは、献花、とも書き換え
られるため、相手に花を差し上げるということでもある。がそんなこと
考えている暇はなく、かーっとなったらアドレナリンが副腎から分泌さ
れる。野菜炒めのキャベツがいつもしなしなってどういうこと、とあな
たが少しイライラ気味に言ったのは、睡眠不足によるアドレナリンのせ
いだったかもしれないね。たまにはしゃきっとしたものが食べたいな。
そうだよね、がんばってみるねの翌日。今日のキャベツは生きてるなぁ
え、おいしい?と怪訝な乙女のほっぺをつんつん、で溢れるオキシトシ
ン。みんな知らないところでがんばってくれているんです。家族が増え
るとなると大変。グルタミン酸やノルアドレナリン、エストロゲンまで
増員し、身体は大家族になります。ひとり、ふたり、さんにんよにん。
増えていくと怒ったり笑ったり、悩んだり勇気が湧いてきたり。生まれ
た子どもは大きくなり、同じところに留まってはいない。夫婦の思いは
いつも同じあたりで膨らみ、何かの時には子どもを支えるクッションに
なっていたのだ。

弾みをつけて行くのだ。クッションを足掛かりにジャンプして、子ども
たちは飛び出す。クッションのおかげで足首も痛めないで行ってしまっ
た。部屋中を見渡してみてもふたりきり。愛おしいと言葉を発すること
も減り、セロトニンはどこへ行ってしまったんだろう。なんて言えばい
いか、どう説明すれば言葉になるのか、わからない気持ちがふやふやと
部屋中に満ちていく。エストロゲン、ノルアドレナリンの再来。夫は元
気で仕事に行って帰ってくる。ふやふやの家に。夫はふやふやなんかで
はないので、部屋に入ったとたん思うだろう。なんだ、この嫌な空間は。
俺という人間を受け入れない。出て行った彼の背中にクッションを投げ
つけたのは偶然だけど、クッションは玄関を通り越して庭の植え込みに
落ちた。枯葉を何枚もつけながら転がったのは偶然ではなかった。

言い争いのもとがなんだったかはすぐに忘れてしまった。彼が言ったこ
とに傷ついたからだったような気もするが、私だって相当彼を傷つけて
しまったと思う。彼がいなくなってなな晩が過ぎて、何も変わらない部
屋。しろくまとペンギンの小さな置物がふたつ並んでこっちを見ている。
テレビには朝のニュース。新しい年になっていた。初日の出、地震、暴
走、火事、惑星の発見、今年のスケジュール、画面の後ろに去年までの
影があって、映し出されるいのししやおじさん、お笑いのコントの端っ
こ、ロウソクの炎に、あぶりだされていく。ぺらんぺらんの蜜柑の皮を
かじっているような笑い方しかできず、声も漏れず、日めくりの4の数
字が乾いた皮膚みたいに堅い。身体の真ん中が空いて一月の空を映して
いる。透けていく眩しさ。眩しさを避けて換気扇の下に座る。横に小窓
がある。あんまり小さいから洗濯物を干す竿しか見えない。タオルを干
したらタオルしか見えない。そこから広がる一日とか出会いとか優しさ。
手のひらで眺めていられるといいのに。そうすれば白いタオルもはため
いて、向こうの景色が見えただろう。流さなかった涙は嵐になり、身体
のなかで熱く渦巻いた。他の何者も受けつけない頑丈な鉄の扉を要塞に
して、軽く笑える準備もできた。帰って来ても来なくても、どっちでも
大丈夫。今まで通り生きていける。クッションは部屋の片隅で埃をかぶ
り、あってもなくてもいい生きものに変わっていた。

海も街も光の中にあった。私たちは二階建ての素朴な旅館に泊まって一
日中海岸にいた。人がまばらな早朝、波は小刻みに浜に寄せた。日常を
動かす歯車が、ぎぃと重たい音をさせて海岸線のほうを空へぐるりと回
っている。ある人は眠りある人は起き出し、無償の陽のなかで淡い夢を
見る。私たちは時々手を触れ合い、目を合わせて、隣にいる誰かを確か
める。ぬくもってきた砂が肌に張り付くあいだにも、歯車は回る。何か
言いたかったことがあったと思ったけれど、浜を通り過ぎる風の気配に
そよがされてまた別の会話が始まる。あの時、なんて言えばよかったん
だろう。なんて言えば未来が今より違ったものになったんだろう。陽が
おちていく前の強い海風が私たちの一日を軽くめくった。
車に乗った帰り道。助手席に置いてあったクッションを抱いて、私は彼
と暮らす家に着くまで眠っていた。外気がほどよく車内にめぐり、暖房
で押しつぶされそうな呼吸を解除する。ぽってりとまるいクッションに
寄りかかり、わたしはぼんやりとこれからの幸せな日々を思っていた。

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