河童許すまじ 神尾和寿
古池に、「河童許すまじ」の立て札が立った。
いたく共鳴した私は、遂に天職を知ったかと
感動をする。
半纏を引っかけ、ねじり鉢巻きを締め、棍
棒を手にして、池の縁に立つ。浮上する河童
の脳天を打ち砕く。脳味噌の緑で水面が染ま
り、その中であめんぼうがもがく。
数ヶ月たつと、「見所のある奴」との評判が
立ち、村の長老が若い娘の手を引いて連れて
くる。
凛々しさに惚れたという。私は斜め下を向
いたまま鷹揚に頷く。
小屋を建て、私は中央で堂々とあぐらをか
き、その脇で、娘が飯を炊く。
水面からは視線をそらさない。ふつふつと
踊る白米の匂いと女の白粉の匂いを、同時に
鼻で楽しむ。額の汗を女がハンケチでぬぐう
音がする。
「そーら、出た、えいやっ」。
至高にして無償の労働は途絶えず、そうし
て、私は河童の皿の勘定をしない。苦しむ材
料は何もない。仏壇の前で念仏を唱える心境
だ。
女の器量はいかほどか。グラマーか、それ
とも花瓶のような体型か、体毛は濃い方か薄
い方か。
「そーら、出た、えいやっ」。
詩集『モンローな夜』(1997年刊行)より
戦後詩の特徴は、深刻な主題と思想性にあるとひとまず言えるだろう。そうした主題偏重の傾向がいつ頃に終焉したかはここで触れない。それはともかく今回紹介する、90年代に書かれた神尾さんの作品から明瞭な主題や主義主張を読みとるのは不可能に近いだろう。おそらく、かれはきわめて批評的な意識のもとに、主題めいたものを孕まないように書いているのだと思う。
いったいこの作品は、何を語ろうとしているのだろう。何の意味があるのか、何を伝えたいのか、まったく分からない。ナンセンスなユーモアはあるが、爆笑するという手合いのものではない。ダウンタウンの松本人志のコントでこれに近い雰囲気を経験したことがあるが、笑いのポイントがすごく微妙な、いわば玄人のお笑いといった感覚のコント。限りなく「意味」・「価値」・「正義」から逃走しているかのような作品世界。そうすると『河童許しまじ』の世界はすぐれて哲学的な様相を帯びてくる。
寓話のようで決して寓話にならない作品。この偽装された夢に、「大きな物語」が成立できなくなった時代の、詩のひとつの在り方を見てしまう。もう今では、戦後詩のように激烈な主題を語ることも、重々しい思想を信じることも不可能なのだ。神尾さんはそのことにもっとも明確な、そして笑える形を与えた詩人だと言えるだろう。わたしなりに解説するならば、ここで試みられているのは、神の視線からの逃走、であり、あらゆる抑圧を可能な限り無効化するすぐれた作品なのである。