センチメンタル・ジャーニー 北村太郎
私はいろいろな街を知っている。
黴くさい街や、
日のひかりが二階だけにしか射さない街を知っている。
それでも時には、
来たことのない灰色の街で電車から降りることがある。
私はいらいらして写真館をさがす。
そして見つけだすと、
(それは殆ど街はずれにあるのだが)
そのまえに止り、
片足でぱたぱたと初めての土地を踏んでみるのだ。
ゴム靴がうつろに鳴り、
一度も会ったことのない少女の幻影が、
ガラス越しに街の象徴を私にあたえてくれる。
私はただの通行人。
しかし私はもっと素晴らしい街にいたらと踏んでみながら思うのだ。
東京、
ヴェネチア、
ニューヨーク、
靴を鳴らしてみたいのだ。
パンで苦しむ私の顔が月光のショウウィンドウをのぞきこむ。
パイプが手から舗道に落ちる。
パリの貧民窟。
そこの写真館でなぜ私の空の心が愛に充ちわたらないわけがあろうか。
私はただの通行人。
いまから四年前には、
黄色い皮膚の下に犬の欲望をかくして、
旅順の街を歩いていた。
私は歩くのが好きだ。
私はいろいろな街を知っている。
朝になると、
賭博狂やアルコール中毒の友だちと同じ眼つきで、
私のねじれた希望のように、
窓から雑閙の街へぶらさがっているゴム靴を見つめるのだ。
森川の日めくり詩歌は戦後詩の代表作を取りあげようと続けているが、戦中生まれの第一次戦後詩から、まだ抜け出せない。今回もまた「荒地」。北村太郎。北村も1922(大正11)年に生まれた、戦中派だが、「荒地」の中でも特異な詩人だ。「荒地」は時代の状況で全体的に詩集の刊行が遅いが、それでも主要メンバーの多くは50年代には刊行している。しかし、北村の第一詩集『北村太郎詩集』が刊行されたのは、1966(昭和41)年、44歳の時だった。もうひとつ特異なのは、荒地の主要メンバーの多くが、鮮烈に登場し詩人としては長い晩年ともいうような生を送った者が多かったのに対し、北村はむしろ晩年に優れた仕事を残している。
掲出の詩は『北村太郎詩集』に収録されている。同詩集には同名の作品が3作あり、晩年のエッセーにもこの題名が使われていて、北村のとって相当思い入れの強い言葉だ。1948(昭和23)年、敗戦の3年後に書かれている。まさに、戦後詩の出発点ともいえる。そのため「私はただの通行人。」や「私のねじれた希望のように、」など、現実に対する違和が現れている。「いまから四年前には、/黄色い皮膚の下に犬の欲望をかくして、/旅順の街を歩いていた。」という部分は、まさにその時の心境をあらわしたものだろう。しかし、「センチメンタル」という題と反して、まったく湿った様子はなく。自らをも解剖するように、冷酷といえるまでに客観的に描いている。そして、その目線こそが北村の捉えた戦争戦後であり、その異物感は生涯詩の問いだった。
リズムを見てみる。1行目は「四八五」とほぼ俳句のリズムで入る。次は「八」の短い行。詩は長短を繰り返しながら、徐々にリズムを崩していく。次は「六八七五」また「八」。15行目に長い行がおかれ、「七」を繰り返す。その後は一番短い、地名がけの行が畳み掛けられ、言葉は一気に加速する。加速とともに自らの心境が情景として抉り出される。しかし、それは情景であり感情でないだけに、痛みはよりふかく読み手に刺さる。