私の好きな詩人 第2回 – 粕谷栄市 – 相澤正一郎

「私の好きな詩人――粕谷栄市」

 『遠い川』をいただきながら、お礼状が遅くなりました。でも、いつもこの詩集が頭に入っていたんだと思います。ヒッチコックの録画『裏窓』を観ていて、ふたたび粕谷さんのことが浮上してきました。ヒッチコックは大好きで何度も映画館で観てきたし、『ヒッチコック/トリュフォー』などヒッチコック関係の本を読んだりしているんですが、観なおしてみて、はじめのころのスリルや興奮は少なくなったものの、そのかわり冷静に分析的に観られ、わかってきたことがたくさんあります。ご存じのように、主人公は脚を怪我したカメラマン――(対象から距離をおいて観察する職業の)ジェームス・スチュアートが、グレース・ケリーに、はじめ「妄想よ」と批判されます(もしかしたら、ものがたりは本当に妄想なのかも)。緻密に客観的に計算し構築した――妄想、恐怖、狂気、悪夢、不条理、でたらめと言えば、ヒッコック監督自身。そして、わが国の詩人「粕谷栄市」。

 今回、観なおして、印象的だったのは、映画の本筋とは関係ないんですが、裏窓に住む奇妙な(それでいて、私たちに似ている)人たちでした。なんだか、おかしな人びとを(明晰で、同時に妄想的な)望遠鏡で覗き見しているジェームス・スチュアートが、粕谷さんにも思えてきたのは、粕谷栄市詩集を読み返したからでしょうか。それと、もうひとつ気が付いたのは、ジェームス・スチュアートとグレース・ケリーが、動かない目(死)と行動する足(生)の男女であるように、住民たちも皆ふたり対になっている――ひとつの部屋にひとりでいた音楽家だって、もう一部屋の孤独な女性と知り合います。『遠い川』でも、夫婦はもちろん、二輪草、私そっくりのもぐらのような顏、えんじゅの木の下で瓜を食う二人そっくりな爺など。詩集に鏡がはさまってシンメトリーを作るのですが、ふたつの正反対の要素――生と死が互いに映しあっている。

 もちろん、ヒッチコックと粕谷さんとは違います。西洋人と東洋人の違いとでもいいましょうか。《杏の木々の満開の花の下に、卓子を出して、私たちは、青菜や鱒の料理を食べる。……溪川の水の音が聞こえ、全ては、昨日と、全く、同じだ》のフレーズが印象的な『花影』の怖さは、そんな退屈ともいえる日常が、じつは死後だったということ。ヒッチコックの場合は、死が忍び寄ってくる足音の恐怖が強調されるものの、死と生の壁は厚い。粕谷詩では隣り合っています。ドアをあけるとすぐ死の部屋へ。また、さきほど引用したフレーズ、あんがい粕谷さんの几帳面な一面さと関係があるのかも。

 第一詩集の『世界の構造』も四十の作品が集められ、改行の字数も、全体の長さもそろっていますし、読点の息づかいの聞こえる語り口――個人の「声」を超えて、もっと集合的無意識の「声」も『遠い川』と同じ。几帳面に一貫しています。散文詩がもともと自由に呪われているから、ことばが流れださないように箍が必要といったことがあるかもしれません(もっとも、粕谷詩には、昔話から民話へ、そしていま、神話さえ含んだ自由さの境地に、といったように内容にはずいぶん変化があるように思います)。

 テレビのドキュメンタリーや以前に読んだ監督のインタビューなどでは、じつはヒッチコックは怖がりで、現実のアクシデントをたいへん嫌ったらしい。作品では、あんなにたくさんの悪夢を描いているのに、日常的には、きちんとした生活を送った。そんなタイプは、カフカやルイス・キャロル。画家では、マグリットがいました。もしかしたら、粕谷さんの詩作も、そんな悪魔祓いの要素があるのでは……。と、いろいろ妄想しています。とりとめもないことを書いて恐縮です。

執筆者紹介

相澤正一郎 (あいざわ・しょういちろう)

一九五〇年、東京生まれ。「歴程」同人。日本現代詩人会会員。現在、拓殖大学講師。

詩の朗読とロックやクラシック、舞踏などとのパフォーマンス、絵画と詩のコラボレーションなど、密室でひとりで創作をするのではなく、よりひらかれた活動をはじめる。

詩集に、『リチャード・ブローティガンの台所』(一九九〇年)、『ふいに天使が きみのテーブルに着いたとしても』(一九九三年)、『ミツバチの惑星』(二〇〇〇年)、『パルナッソスへの旅』(二〇〇六年)(第五六回H氏賞)、『テーブルの上のひつじ雲/テーブルの下のミルクティーという名の犬』(二〇一〇年)(第四八回藤村記念歴程賞)など。

タグ: ,

      

Leave a Reply



© 2009 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト. All Rights Reserved.

This blog is powered by Wordpress