私の好きな詩人 第15回 – ディラン・トマス – 添田馨

 詩を書きはじめて間もないころ、手当たり次第にさまざまな詩人の作品を読み漁った。時代を問わず古代から現代まで、また洋の東西をも問わず、目に触れる詩集の類にはすべて食いついた。当然、そのなかには好きな詩人、嫌いな詩人の色分けも芽生えてきた。

 可笑しな話だが、その頃、自分にとって詩を読むことは快楽というより、どちらかといえば苦痛に近かった。気楽な一読者としてではなく、批評的な裁断の目でもって詩の価値を腑分けしようという暗い情熱にとらわれていた私は、詩にとってはむしろ破壊者として振舞っていたような気がする。すでに書かれた作品を、いわば原初の無のほうへ解体することを自らに課していたその分だけ、詩を読む作業は精神にとっての重荷となっていた。

 こういっては何だが、私が心惹かれる詩人はどれも、なぜかろくな人生を歩んでいない者ばかりだった。その作品に深く踏みこめば踏みこむほど、彼等ののっぴきならない人生の断片ばかりが生々しく感じられてきて、だんだんとこちらの気が滅入ってくるのが常だった。無論、尊敬する詩人は数少なかったが何人かはいた。しかし、好きだと言える詩人が何人いたかは疑わしい。いや、自分はほんとうに詩が好きだったのかどうかも怪しいものだ。私はいまでも自分を詩人と自己規定することに、一抹の後ろめたさを感じるのもそのためだろう。

 そんな昔のことを思い出しながら、いま自分がその作品と向き合う際にそんな後ろめたさを感じることなく、ごくごく自然に受け入れられる詩人こそが、おそらく私の好きな詩人ということになるのだろうか。

だとしたら、ディラン・トマスは私のとてもとても好きな詩人だ。彼の言葉はいい。単語のひとつひとつ、各スタンザの一行一行に、なにか不思議な血液のようなものが詰まっていて、あたかも生理現象のようにして言葉が生み出されているような印象がある。私には百年かかっても書けないものだ。

コトバを日本語では“言の葉(ことのは)”と表記する。詩がそれじたい生命をもった被造物だとするなら、それを構成するコトバはそれぞれが呼吸もし、光合成もおこない、紅葉したり風にざわめいたり、まさに植物の葉のように生きて繁っているものが詩作品だという思いが私にはある。多分にそれは感覚的な比喩だが、世間にはそういう詩作品ばかりがあるわけではない。それどころか、故知らぬ悪意に満ちて、読むものを思わず身構えさせるような作品だっていくらも存在する。ディラン・トマスの詩は、その点、身構えなくていい。だから、自然にその詩空間のなかにすっと入っていける。で、そこから出てくるとき、私は自分の肺が彼の言葉のオゾンで満たされているのを感じるのである。

タグ: ,

      

Leave a Reply



© 2009 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト. All Rights Reserved.

This blog is powered by Wordpress