私の好きな詩人 第32回 – 山本育夫 – 鈴木一平

 ぼくの大学の近くには古本屋がたくさんあって、歩いて帰ろうと思うと40分で家に着けるはずの道が、気が付けば平気で2、3時間を越えてしまう。

くるぶしの所、ここ、ここ、ねっ

声の輪の中で

際立つ

変声があったの

指し示されれば注目をひく

ということになる

むりやりみせつけられてばかり

きたな

印象はあるが前後の膨らみは

脱ぎ捨てられて

痩せている

(『ボイスの印象』)

 馬鹿じゃねえのと思うくらい高い本しか置いていないような古本屋もあるのだが、中には逆に馬鹿じゃねえのと思うくらい良い本が安く置いている古本屋もある。適当な古本屋へ行くと必ず置いてる気がするサルトル全集とか片桐ユズル詩集はともかくとして、それほど多く出回っているわけでもない上にすげーいいなと思う本が100~300円で置いていたりしていて、よく仕入れてくるよなと思いつつも、にしたってそんな安く置くのって普通に失礼だろと思う。たとえば『黄金詩篇』の初版で状態もそれなりに良い奴が200円とか、これは詩集じゃないけどロブ=グリエの『新しい小説のために』が、たぶん婦人雑誌かどっかで堤邦子が書いた「ロブ=グリエって絶対好きな女の子いじめる系男子だったと思うの!」的な文章の切り抜き入りで100円とか、そういう叩き売り同然で売っていたりすることも珍しくなかったりする。ロブ=グリエはまあ、好きな女の子のトイレとか絶対覗いてたと思うけど、山本育夫の『ボイスの印象』も、たしか大学までの道の途中、たしか神社の近くにあった古本屋で買ったと思う。300円くらいだったかな。

おがくずみたいにアスファルトが、
削れている所があり、あ、あそこ
と思う、
次第に晒されていく体内、
在りと在る、あけては閉じる体内、
目前に解体された宿舎の瓦礫達、似ている
ひらめ、ひらめ、め、
こんなもの、こんなもの、と言い続けてきた、
ぶちぎって、棒のように浮かびたかった、
入りしなに、ぼむっと窓わくで打った、
(『水の周辺』)

 別に意識してるわけじゃないけど呼吸が似てしまうということがある。ということにしたいだけなんだけど、過去に読んだ詩集を読み返してみて気付かされることの1つがそれだ。広く呼吸とぼくが呼ぶところのものというのは例えばリズム、行の切り返し、言葉の選択、あるいは出し惜しみのやり方なんだけど、読んでいてそれがいいなと思うところがある時、ぼくはその詩がいいと思う。まあ、別にそれだけで詩の良し悪しを決めるわけではなく自分とは真逆のやり方、あるいはいいなと思っても今この方法でやってくのはどうかな的な方法で書かれた詩の方が好きだったりすることもある。

埋葬
と呟いてしまう
今では珍しいことになる
行きすぎてからの
振り返りなのだが
いつも
しばらくN達の話題で賑う
五丁目のユーザーさんの
右足骨折のいきさつなど含まれていて
涙が溜る程 笑ってしまう
(『過失』)

どっちにしろ、出来ればお里が知れるようにはしたくないとは思いながらも詩を書く時に自分でもちょっと微妙だなと思うようなやり方で詩を書くことはほとんどないので、まったく同じというわけではないにしても自然に昔読んでいいと思った呼吸と重なることが多くある。お気に入りの呼吸の集合が自分の詩であるような気もしないでもない。

ヘーテー、ヘーテー、
と発音している
声を笑えない
輪ゴムでぐるぐるまき
くいこんでいる所から
もう潤いだしている
(いやだ
午後の材木置場はどうしてこう
暗いのかな
曇天のせいだけではない
ヒカリヒカリヒカリピカリ
(欲しいよ
円盤も悪くはありません
語尾をあげる
(『密事』)

中でもぼくは録音状態のいい詩、読んでいて声の質感を感じる詩が好きだ。発声と呼吸は切り離せない。抽象度を高められ、文字に打ち直されたはずなのにそれでもまだ誰かの声として生きているような声、あるいは死んでも尚頭の中でもう一度起こされるような声。状態のいい録音で書かれた詩は、テープで吹き込まれたそれとはまた別の良さがある。身の丈にあった口の利き方をしている詩もいいと思うし、逆に普段よりもちょっと場や気分を変えてしゃべってみました的な文体の詩もいい。要するに、不可能性とかそういう話を越えて声に対する意識が向けられている詩と言えばいいのかもしれないが、とにかくぼくはそうした声のよりよい聞き手になりたいと思う。まあ、日常生活だと基本的に人の話聞いてる? とか言われることの方が多いんだけど。

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