私の好きな詩人 第45回 – ポール・エリュアール – 来住野恵子

祝福された火の波のうえに

「火影(ほかげ)の野が涙を綴る/目をつぶれ/すべては満たされる。」(『あらゆる試練に』より「宇宙・孤独」)

学校帰りに立ち寄った本屋の片隅で、エリュアールの詩の一節が飛び込んできたときの衝撃は忘れられない。胸がしめつけられ、全身にしびれるようないたみが走った。これが、詩なんだ、と私は確信した。折しもその日は十六歳の誕生日。目が覚めるようなかつて知らなかった新鮮な言葉のプレゼントだった。後年、私の誕生日が偶然にもエリュアールの誕生日と同日であると知って驚愕したが、山崎栄治訳のそのエリュアール選詩集はいまも大事に手元にある。

私にとってエリュアールの言葉は、心の奥にしまわれて時に浮かびあがってくるという類のものではない。たとえば「愛撫はみんな 信頼はみんな 生きつづける」(『愛・ポエジー』より)。さりげなく深い直接性をもったこの一行などは、何十年もの間、心身にしみとおって文字通り「生きつづけ」、熱や力になっている。ともすれば「愛撫」や「信頼」は移ろう諸現象の代表だが、それを「生きつづける」と言い切ったエリュアールの深い直観、魂の真実が読み手の魂に引火するのだろう。業火に焼かれ、すべてが灰と帰してもけっして失われないもの。それが言葉の管轄を越えたところで確かに「生きつづける」ことを、魂の火が証する。

愛――人間の内なる火――をうたって尽きることのなかった彼は天性の火の詩人である。生成する火は、燃えつつ消え、消えつつ燃えるという完全に矛盾した状態でしか自ら存在できない故に、古来、普遍的な説明原理として、生と死、夢と現実、善と悪・・・など対極にあるものを繋ぐ役目を担ってきた。火による変化は瞬時で深く決定的であり、一気に彼岸へと向かう。

第一次世界大戦の際、野戦病院で夥しい傷病兵の看護に当たっていた彼は、悲惨を骨の髄まで知るアナーキストだった。彼にとって詩は「芸術品でなく実用品」であり、「人生に奉仕するもの」であった。次の大戦時の一九四二年、対独抵抗運動のひとつとして、英空軍機によって空から地上へばらまかれた彼の最も有名な詩「自由(リベルテ)」の中に、「祝福された火の波のうえに」という一節がある。悲苦の底にあってもペシミズムやルサンチマンに傾かないエリュアールの言葉は、神なきまま絶対の肯定を基音とし、生命は本来「祝福された火の波」なのだと繰り返して止まない。

最晩年の詩集『不死鳥』では、もはや普遍の火そのものの声でまっすぐに語っている。「人間たちは和合するために造られている 理解しあうために 愛しあうために」・・・まるで、知らず宇宙を負って原っぱに転がる石ころのように何でもなく偉大だ。〈たがいに愛し合いなさい〉と説かれるまでもない。愛の必要は自明の理であり、人間にとってそれ以上大切なことなど何もないだろう。

火の起源は神秘に包まれ、永遠に新しい神話を創り出す。だからこそ生命の火の声は、固有の名を貫いて無名に至るのだ。詩人とは、エリュアールの言うように「霊感を与えられた人間ではなく霊感を与える人間」のことである。瞬間瞬間、自身のすべてを明け渡して燃える火の精(サラマンドル)が無数の〈私〉を生き、無数の霊感を呼び覚ましている。

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