私の好きな詩人 第53回 – 中原中也 – 一方井亜稀

 春の雨が好きである。頑なに形象をとどめていた冬の街が少しずつほどけてゆく感覚は、何かへ移行する手前、全くの不安定さを伴って、束の間の抒情をもたらす。或いは萌芽の手前、輪郭がぼやけて浮かれる、それは日々の雑念さえぼやかすほどの、故に「好き」と括られるところの感覚は「呆ける」と置き換え可能な、愚かさと隣り合わせの感覚と言えるのかもしれない。そのような感情を抱く詩人として、中原中也をあげたい。

幾時代かがありまして 
茶色い戦争ありました 
 
  幾時代かがありまして
    冬は疾風吹きました

 代表作のひとつとも言えよう「サーカス」を取り上げる。冒頭からも分かるように、中也を読む際、この独特のリズムが否応なしに耳に入ってくる。これは、五・七・五のリズムを踏襲しつつも、伝統的詩歌とは違う立脚点を持つ。

頭倒さに手を垂れて
  汚れ木綿の屋蓋のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 では、その立脚点とは何処であろう。オノマトペもちろん、伝統的な位置から外れる効果を持つ訳だが、次に、視覚的要素に注目してみたい。

 再び冒頭に戻ると、「幾時代かがありまして」と、のっけから正確な時間設定を無化する一行があり、疾風が吹くことで時系列は全く意味をなさない空間が浮かび上がる。そこに、サーカス小屋に吊るされるブランコが登場する。ブランコもまた、不安定な要素を伴って空間を左右する。いつの時代とも知れないただサーカス小屋としか名指されない場所で、観客は呆然とそれを眺めるよりほかない。おまけに「屋外は真ッ闇 闇の闇」である。つまりここは閉ざされた内部、あるいは現実世界から遮断された外部である。
 このような場所を起点として、では、中也が辿り着きたい場所は何処であったか。

時空間を無化するような、ひたすら不安定なイメージ。五・七・五のリズムとオノマトペ。これらの仕掛けを駆使してさえ言葉の意味・概念の乗り越え、といった形跡は見られない。言葉ひとつひとつは内的世界を構築するが、必ずしも暗喩として機能している訳ではない。技術を導入するに留まり、言葉や認識への問いただしという野心はないに等しい。浮き立ってくるのは、寂しいタマシイの露出、これに尽きる。
 ここでいうタマシイとは、個性とか心情に代替可能なものでなく、技術を駆使してなお浮かび上がってしまう何かである。ピエロのようにおどけた悲哀の表情は、中也詩の全体を覆うものであり、この得体の知れない何かが中也詩を支える基軸でもある。
 とするならば、仮に「現代詩」と呼ばれる系譜をさかのぼる際、中也に辿り着くかは疑わしい。狭義な視点ではあるが、「私の好きな詩人」に中也を括る必然も浮かんで来るだろう。
 寂しいタマシイは淡い期待や遠い過去やさまざまな感覚と呼応して、春の雨のように響く。無論、この得体の知れない何かを紐解く必要もあるのだが、文字数が尽きた、ひとまず筆を置く。

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