私の好きな詩人 第55回 – 井坂洋子 – 渡辺めぐみ

井坂洋子詩集『嵐の前』(二0一0年・思潮社)を再読して

 井坂洋子氏の最新詩集『嵐の前』(第二回鮎川信夫賞受賞)を初めて拝読したのは二〇一〇年十二月の初旬だった。それからこの詩集のことはいつも心にあったが、昨年の三月十一日の東日本大震災を経て久しぶりにこの詩集を読み直してみると、感動した箇所がずれているところがあったり、作品の印象が違ったりした。この詩集自体が雨や風を吸い込んで細胞分裂を繰り返している生命体のように思われてきて、それはこの詩集が外界の人の命の営みに深く開かれているからではないかと改めて思った。

 どの作品を読んでも言葉が鋭利に精緻にしたたかにひるがえっている。その鮮やかさはあらゆる生存が逃れるべくもない宿命に逆らいながらまっすぐに突き進もうとするエネルギ―のような気がする。現実主義的な、虚無的な、乾いた書き方がされているのだが、光は射す。それが井坂氏の作品に私が惹きつけられる部分である。「膝を深く折り 貝のように体をまるめていた/太陽も取り引きにやってこない/精霊よ この日をダンボールですごすことをお助け下さい」(「へそ」部分)絶望の、諦めの、どん底にいるとき、己れが世界の中心(へそ)なのだと思うことはないだろうか。神とも精霊ともかけひきのできる自由がその瞬間に訪れ、それは希望とは違うが追い詰められたものの、ぎりぎりの逆説の発想だ。その目には見えない気のようなものに、読者である私も押し上げられる。

 風景は人に何をしてくれるかということがある。内的葛藤に苦しむ者は不幸せである。その原因が社会や人間関係の摩擦による外圧であれ、内なる孤独であれ、長期的であれ、短期的であれ、充満した不幸せが風景と接触すれば現象が起こる。しかしそれは『嵐の前』では一筋縄ではゆかない。「何度スタンプを押しても/かすれる昼の月が/釣り糸を垂らす老人の指先で白い粉になる/川は怒っていたのではない/光っていたのだ」(「光る川」部分)精密に言葉の先行を嫌う井坂氏の文体だ。単純に詩情と呼んでは失礼かもしれない。正確には何も始まらないが、始まらなければならない人と自然の呼吸が刻まれる。

 詩集後半部分には、施設の管理と束縛を代償に最低限の衣食住を約束されていた女性が、ある日突然脱走し運送会社の女性運転手に助けられ、運転手に飼われていた地球上たった一匹しかいない孤独な生命体「タモ」と呼ばれるペットとの出会いののち、身体を売りながら精神の自由を得るべく自立してゆく筋立てを持つ連作詩が収録されている。読了当初から最も感銘を受けた作品群だ。限界的状況に立つものから何が見えるのかということについて繰り返し書かれているように思われる本詩集の中で、これらの連作詩篇は一つの過渡的な答えを指し示しているのではないだろうか。人の尊厳は魂の自由によって守られるもの。尊厳を守られた人が幸福であるとは限らない。それでもその今生の不条理を精一杯生き抜くこと。そのような人と自分をなんとか愛したい・・・。生の圧倒的不穏さに対しとても正直な井坂洋子氏の徹頭徹尾未解決な感慨が伝わってくるかのようだ。今はそれを受け止めておきたいと思う。連作詩の過渡的結末が示される「への字」という作品の忘れがたい詩行とともに。「夜は昼の思い出のために在る。」

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