読み進める昨日 第4回 藤井貞和
 除染、測定、原発・放射能についての学び

第4回 読み進める昨日  藤井貞和 ―― 除染、測定、原発・放射能についての学び

(除染日記から〈8月~9月〉)

〈玄関口が階段の家はクレーンでユンボを釣り上げて入れる。道路向かいのお家に昨夕、はいったので、きょうはお休みか、やれやれ、と思っていたら、駐車場から中型の可愛いユンボが現れ、1メートル×5メートルの穴を掘っている。わが庭の削った表土は他家並みで、敷いてあった煉瓦がたくさんあり、東隣り宅の約三倍ある。1メートル袋4個とか。無理ではないか、と。深さ2メートル余り。牡丹を避けるので幅1メートルちょっと。駐車場にはトラックがはいり、いったん穴を掘った土を一輪車で運んで行き、また埋める。いま、ユンボがガリガリと止まったり、動いたりしている。木の根だと思ったら、手掘りをまじえて止まる。石のようだ。どうやらお昼までには掘れそうで、この穴に雨がたまらないことを祈って。

庭の西から東へ、三分の一程が大きな穴で、1メートルの袋3個に汚染土を入れる。1個分の場所に煉瓦をたぶん120個ぐらい、投げ入れ、ブルーシート四つ折りにしてかぶせ、掘った土をユンボと人力とでいま、埋め戻している。ユンボが何度も叩き付けて掘っていたとき、窓で見ていたら足元がほんの少し揺れるような感じだ。今日の担当の十何人かはたいへんだった。家も埃だらけと思うので、庭の除染を終えた後に家をした方がよいのに、と思う。

 周りの木々の根が分断されて、かわいそう。でも、あまり下に根がのびていず、岩盤なので横に伸び、地震の支えにはならないとわかった。親請けも下請けも写真を撮りながら。土が穴にはいった時点で計りに来てボードに書き撮っていたのは市の職員らしい。いまはゴロ土を潰している。けさ、あまりの多さに「煉瓦は洗い場で洗って下されば使う」と言ったけど、計画通りにすすめたいと言われる。洗い場が混み合い、たぶん汚染水の問題が解決しないからと推測できた。

 明日は削った庭全体に土を元の高さまで入れ、化粧砂が入れば終わるとして、半日早く始まっていても最低四日といわれている。明日あたりは降りそうで、化粧砂がはいらないとどろんこになる。いま、大勢で駐車場を掃除している。びしょびしょ…… 山砂入れが始まり、家と庭との境を地ならしの小型のローラが動いて、床は振動し、轟音だ。北の玄関がわは終わり、南の庭の作業にはいる。朝、新しくはいった人か、給料に不満か、何せ作業員が足りないのだ。

色白の高校生ぐらいの子が二人。一人が咳をしている。風邪だと言う。私は夜、声がかすれ、土埃のせいだと思う。暑いのでマスクもせず、アルバイトのよう。東も、北東も、飯舘、南相馬からの避難の家族だ。お茶出しなどをするはずもなく、私はクーラーボックスに冷たい飲み物など入れっぱなしで、しなくてもよいといわれていても、彼らのご家族はこの暑さのなか、心配だ。今日中に終われば掃除をして完成だけど、まだわからない。〉

以上、クレマチスの一会員からいただく報告の一部。1年以上が経っての、始まった福島市の除染の状況だ。それから数日して、1年前の(2011年)3月12日朝刊の読売新聞(コピー)をも届けてもらう。1面…見出し「東日本 巨大地震」「M8.8」「大津波、死者数百人」「三陸海岸 壊滅状態」「原子炉圧力が上昇 福島第一」「仙台200~300の遺体」。

「3・11」の翌朝での新聞報道は原点の一つとなっていよう。一つを忘れないために書き出しておく。今後、何年もかけて大きなパニックへと日本社会が巻き込まれてゆく、「可能性」を記事は予告しており、抑えながら適確である。原発立地国の一つである日本国に住む人々が、チェルノブイリそして東海原発事故、柏崎刈羽原発を去来させながら、みずからの想像力を試されている、歴史のなかの瞬間を刻んでいる。「水位の低下」の意味するところは何か。ベントをやるぞ。「微量の放射能物質が環境中に」は「多量の……」と読み換えろ。記事は曇りなく伝え、さいごに「放射能物質が外部に漏れる可能性」と締めくくる。

深夜から未明にかけて、パソコンの諸サイトを追いかけていた私には、いまこの記事を読むと、報道記者ならこのように1面に書くしかないと、非常によくわかる。緊急事態宣言と避難の開始とによって、政府が何を把握し、判断しているかも、だいたい推測できる。第一回にみうら氏を引用したように、立地町の大熊町そして双葉町は当夜のうちに避難を開始したのに、隣町の浪江町などには知らされなかったと、この記事からは信じがたいことながら、よく読めば読み取れる。

 〈東京電力福島第一原子力発電所(福島県大熊町、双葉町)1~3号機で、地震によって運転が自動停止した後、水を注入して冷却する「緊急炉心冷却装置(ECCS)」、除熱装置を停電時に稼働させる非常電源が故障するトラブルが発生した。政府は11日夜、原子力災害対策特別措置法に基づき、原子力緊急事態を宣言した。2号機の原子炉内の水位の低下が確認され、政府は同原発から半径3キロ以内の住民を「避難」させるよう地元自治体に指示した。12日未明には1号機の原子炉の圧力が設計値の1・5倍に上昇し、同社は圧力を外部に逃がす操作を行う方針。微量の放射性物質が環境中に出る可能性がある。

 経済産業省原子力安全・保安院によると、ECCSを動かす電源を消失した事態は国内で初めて。ECCSは、炉内の温度や圧力が異常上昇した時に注水して冷やす装置。必要時に作動しない揚合は、放射能物質が外部に漏れる可能性もある。〉(「原子炉圧力が上昇 福島第一」全文)

 2面…「重油流出 大火災」「気仙沼中心部が焼失」「津波 陸前高田市街のむ」。

 3面…「原発 避難指示」「福島第一 放射能漏れの恐れ」…… 11日午後4時59分の写真(本社ヘリ、曽野靖撮影)が、爆発まえの3機を写し出す。この段階で4号機は意識されなかったようだ。1面の記事がここではかなり詳しく繰り返され、「予断を許さない状態」とも、「核燃料は金属の被覆で覆われており、チェルノブイリ原発で起きたような炉心溶融(メルトダウン)にまで発展する可能性は高くない」ともある。「高くない」、か。チェルノブイリを引用し、メルトダウンにまで言及するこの記事は、低くない危険性を指摘していると読むべきだろう。「高くない」と言うところに、ニュースソースの保安院の学者たちのかれららしさが動き始めている。

 「金属の被覆」か。何という金属か。これは保安院ならわかっている。

 当面の冷却水は10時間しか持たない、という。推測でなく、そういうことらしい。これは震え上がるようなことではないか。

 関係者によると、水位の確認ができない、と。水位の下がっている可能性があるとすると、非常な危険性を予測させる。

 さらなる冷却装置が必要となる。10時間以内に方策を用意できるか。

 さしせまる危険と言うべきだろう。「可能性」という語を繰り返すしかないことは分かる。福島県民を非常な危険状態に置いている。危険は「可能性」だが、そのような状態にあることは実態だろう。「可能性」=(イコール)状態。

 水素爆発が起きてからあと、なかなかわからないことは(いまもよくわからないが)、なぜ水素がそんなところに発生する? 被覆した金属の性質によるとすれば、ジルコニウム? これなら、原子炉の設計当初から予測できたことではないか。保安院が言を左右にしている、責任の起点がそもそも設計のなかに胚胎している。これには絶句する(しかないか)。炉心溶融からは再臨界の「可能性」だってある(大いに)。最近の学者(御用学者を自称する人もいる)の、一般人をたしなめる発言に、水素爆発と核爆発とはぜんぜん違う爆発なのに、まだ混同するひとがいる、とあざ笑うようなのがあった。つまり、原子力学者のなかでは水素爆発を予想していた、ということでもある。

3月12日(2011)朝の読売3面の写真および記事からは、一般人のわれわれが、水素爆発なんか考えもつかなかったろう。『源氏物語』の専門的研究者が「一般読者」や愛好家たちの楽しい読み方をあざ笑うだろうか。文系と理系との相違ということがあるのかもしれないが、学者たちのすべて(社会学系を含む)にいまに要請したいのは、原点に返り福島県民の困惑を思い、子供たちの未来に思いを馳せ、これからを見据えて何をすべきかの提案である、と正論を吐きつづけよう。

 5面はECCSへの解説を初めとして、冷却水を注入できない「原発『想定外』の危機」を特集する一面からなる。

 逃げ得なかったひとをけっして責めることではない。水素爆発を予測できたのなら、原子力学者そして政府サイドが、ベントとは比較にならない放射能飛散を想定して、広範囲の避難指示へ動き出すべきだった。いや、緊急対策本部の設置、当面の避難指示など、政府サイドの対応は迅速と言えば言える。原発の水素爆発が早すぎた、猛烈だった。それだけに、金属の被覆の損傷が水素を発生させるのなら、設計じたいに欠陥があることを放置してきた保安院こそが責められる。

早くから原発批判に取り組んできた、武藤類子氏の『福島からあなたへ』(2012・1、写真森住卓、大月書店)を引きたくなった。

〈2011年3月11日午後2時46分。

かすかな山鳴りが聞こえ、軽いめまいのような揺れを感じました。しだいに揺れは大きくなり、木造の家がギシギシと音をたてました。ガラスの食器が割れる音を聞きながらテーブルの下で、「原発は大丈夫かな――」と考えていました。やがてラジオが、福島原発は無事制御棒が入り緊急停止したことを放送し、私はほっとひと息つきながら割れたガラスを片づけていました。まもなく、ラジオは大津波がやってきたことを伝え、そして夕方、福島原発のすべての炉の電源が喪失したことを告げました。

長いあいだ恐れていたことが現実となった――。すぐにはその事実を受け入れがたく、45㎞先に原発がある東の方角を茫然と眺めていました。冷却水が循環しないということが何を引き起こすのか、私には多少の知識がありました。昨年―2010年―の6月、福島第一原発2号機でまさに「全交流電源喪失」という事故がありました。30分間の電源喪失で大事には至らなかったのですが、そのときに何が起こるかの想定をしたのです。「メルトダウン」という言葉が頭の奥でこだましました。

我に返って何をするべきかを考えました。電話もメールも届かないなかで、決断は急を要していました。私とつれあいの真弥はうす暗くなった夕闇の町を、子どものいる友人の家へと急ぎました。

「早く逃げたほうがいいよ!」

二家族はすぐに決断し、避難の準備を始めました。そして私も、つれあい、母親、犬とともに、風上であるだろう西へ向かって夜の道を車で走り出しました。峠は吹雪でした。闇の中からフロントガラスに次々に吹きつけてくる雪を眺めながら、「間に合わなかった」のリフレインが耳の奥で響きつづけました。回りきれなかった友人たちのことを思うと、自分だけが逃げることの罪悪感がチクチクと胸を刺したのでした。

翌朝、青い空に真っ白な雪が積もった会津若松市内で、地震被災者の避難所を見つけ、そこで原発のニュースをはじめてテレビで見ました。まだ知らせる人がいる。そう思って戻ることを決意し、ガソリンを満タンにして昨夜走った道を戻りました。大型バスがたくさんの人を乗せて西へ向かい、空のバスが東へ向かって走っていくのを何台も見ました。

家に戻ってしばらくすると1号機が爆発したとのニュース。必死で電話やメールを送りつづけていましたが、14日には3号機が爆発してしまいました。3号機はプルサーマル運転をしていた炉でした。やっぱりここにいることはできない……。ふたたび避難を決意しました。大事なものを持っていこうと思うのですが、大好きなCDぐらいしか思いつかず、あとはあるだけの現金を持ち、出発しました。〉

「9・19さようなら原発5万人集会」(2011、明治公園)は、忘れられようとしているかもしれないが、6万人が東京に集まったときの、福島県から参加した武藤さんの「どうか福島を忘れないでください」というアピールも、いまにだいじなわれわれの原点としてある。

…… 
私(わたし)たちとつながってください。 
 
私(わたし)たちが起(お)こしているアクションに注目(ちゅうもく)してください。 
 
政府(せいふ)交渉(こうしょう)、疎開(そかい)裁判(さいばん)、避難(ひなん)、保(ほ)養(よう)、 
除(じょ)染(せん)、測定(そくてい)、原発(げんぱつ)・放射能(ほうしゃのう)についての学(まな)び。 
……                       (22ページより)

現在(2012年8~9月)の首相官邸まえでの、毎金曜日ごとの再稼働反対のアクションは、その5万人集会に応えているという向きがある。さまざまな趣きで参加する人からなるとはいえ、この再稼働反対のアクションを(前回にも言ったように)高く評価したい。このアクションは何も産まない、とか、参加者の自己満足、とか、福島県内に届かない、などの批判をするひとが出て来るのは予想のうちだ。

沖縄の人々が、じつにさまざまな意見を持つ(沖縄を知るひとびとならいろいろに意見が割れて収拾つかないかれらであるとよく知るはずである)にもかかわらず、普天間基地の「県外移転」という集約点で10万人が動いた、数年前のあのまとまり方。今回のオスプレイ反対10万人集会もその趣きを覗かせる。東京で、首相官邸まえでの毎金曜日が「再稼働反対」で一致点を求めているのはそれに似ている。国際的な報道として、日本社会に再稼働反対のアクションがあることを知られることは要点としてある。

 東京人について言えば、ほんとうに存在感が希薄である。パニックが起きたら、はかない自分のそのときだとあきらめている。噴火するかもしれない富士山の方向を毎朝見て暮らす。ビルとビルとを見やると、それらがゆらゆら揺れていたことを思い出し、大きく揺れたらぶつかり合わないかと思う。広がる地下街で、大きな地震とともに停電したら、そしてもし津波のような浸水が襲ったら、暗くて出口もわからず、見つけても殺到する人々が足下に倒れており、自分も静かに踞(うずくま)るほかになすすべを知らない。大阪もたぶん、1万人が地下街で南海地震の津波に溺れるほかなかろう。それでも、再稼働に反対して、ある日、デモに参加したことがあるとすれば、そして少しでも力になれたとその人が思えるなら、この世にのこす子々孫々のためにはよいことをしたと、その津波がつぎの原発事故と連動しないことを祈りつつ、瞑目するだろう。福島に対して、東京は冷たいのでなく、何もしないのでなく、見捨てているのでなく、すこしでも温度差を少なくしたいと、祈りのような思いでつながろうとしている。

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5 Responses to “読み進める昨日 第4回 藤井貞和
 除染、測定、原発・放射能についての学び”


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  4. 乾的除染 | 放射能Info
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  5. 南相馬 除染 イオン « 除染info
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