戦後俳句を読む(9 – 1)  ―「精神」を読む―  楠本憲吉の句 / 筑紫磐井

青葉騒きれいな嘘はきたなく吐き

昭和44年の作品、『孤客』より。

憲吉に高い精神性を期待するのは無理のようだ。エスプリはフランス語では精神のはずだが、日本語に入ってきたエスプリという言葉(外来語)の語感は軽妙な洒落のように受け取られている。その意味では憲吉にピッタリの言葉となった。

我々の人生の師を憲吉には期待しない。憲吉の俳句にも期待しない。期待するのはウィットに富んだ表現。しかし手際よく言ってのけたその言葉には、いくばくかの人生の真理があることも事実だ。

徒然草で兼好法師が「しやせまし、せずやあらましと思ふことは、おほやうは、せぬがよきなり」(したほうがいいか、しないほうがいいかと迷うことは、大体はしないほうがいいのだ)という言葉は、どんな思想哲学よりも真理に近い【注】。こうした消極主義は決して人生の教師から見ても褒められたものではないのだが、崖っぷちに臨んだ態度を決めないといけない時は、最大の決め手だ。酸いも甘いも噛み分けて、常に矛盾に満ちた言葉を吐き、芝居では恋の手引きをする粋な法師兼好は、さしづめ、鎌倉時代の楠本憲吉であるかもしれない。

逢えば酔語逢わねば独語年暮るる

手際よく言ってのけただけの言葉のようにも受け取れるが、この言葉の背後にはそれなりの憲吉の精神状態が浮かび上がる。酔語も独語もまともな精神状態ではないが、女に向かう時の態度はこの2つしかないのだ。女性に真面目な顔をして向かうことは、憲吉の美学に合わない。

冒頭の句も、嘘を吐く相手は女性のような、あるいは女性が男性に向かって吐く嘘のような気がする。男対男の嘘にはきれいも汚いもあるものか。


【注】とはいえ、この言葉は浄土教の金言集『一言芳談』に載る明禅法印の言葉の引用であり、彼は「聖はわろきがよきなり」という親鸞に匹敵する言葉を吐いた傑物である。その思想的な背景は決して浅くはない(徹底した消極主義はカントのような厳格主義、義務的な行為以外は善と認めないことになるだろうから)。しかし、兼好も憲吉も決してそんなに深くはないことだけは保証する。

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