戦後俳句を読む(16 – 1)  ―「鳥」を読む―  楠本憲吉の句 / 筑紫磐井

私は船お前はカモメ海玄冬

前号、鑑賞文の中で例句として取り上げたが、再度、憲吉の技法を確認するために取り上げよう。

61年、『方壺集』より。玄冬は間違いではない、「厳冬」は寒い冬だが、「玄冬」は中国の5行説で色彩と四季を組み合わせたとき、青春、朱夏、白秋、玄(くろ)冬と呼ばれるからだ。極寒の冬を連想しなくてもよい、おごそかな冬の季節感を感じ取ればそれでよいのだ。

憲吉には、既に述べたように他の俳句や詩、歌謡の借用が多かったが、これに通じるものとして、こうした対句の構造が多い。それも、月並みではない、しかしいかにも通俗的な使い方が目立つことだ。この句で見れば、たちまち歌謡曲の一節が思い出されるが、「私は船お前はカモメ」はありそうでない歌詞だ。しかし、私は船あなたは港、私はカモメ・・・など類した歌謡曲を探すことは苦労は要らない。

蘭は絃、火焔樹は管、風は奏者
曇り日の風の諜者に薔薇の私語
ひらひらとコスモスひらひらと人の嘘
足跡に春日洽(あまね)し潮騒遠し
ヒヤシンス鋭し妻の嘘恐ろし
ヒヤシンス紅し夫の嘘哀し
”矛盾”それは花言葉ではない君言葉
巨花か巨船か流離のごとき熱の中
君と白鳥探すこの旅死探す旅
ひまわり多感 中年よりも南風(はえ)よりも
我を愛せとバラ我を殺せとまんじゅうしゃげ
二日はや死と詩が忍び足でくる
鴨遊ぶ池畔孤客でおしゃれで僕で
鴨川を何か流るる心か何か
湖は秋波で僕は秋波でホテルは何波
とある女ととある話の虫の宿
没日何色私はあなたの何色
天に狙撃手地に爆撃手僕標的

このように見てくると、くすぐったくはなるが、作詞家であれば阿久悠の感覚に似ているかもしれない。かるく、しかしどこか心が疼けばそれでよいという詠み方なのである。
戦後俳句は、稲垣きくのや斎藤玄も必要だが、一方でこんな感性も生んでいる。戦後俳句の豊饒さを言うときにはどちらも忘れられない人々であると思うのである。兜太、重信、龍太、澄雄ばかりが戦後俳句なのではない。通俗性は、戦後俳句の特徴の一つであり、やがて「俳句って楽しい」という、とても文芸とは思えないキャッチフレーズまでが生まれ始める。確かに楠本憲吉はそうした風潮の責任を負うべき最初の作家であり、戦犯である。ただ厭うべき戦犯ではなくて、愛すべき戦犯と思ってほしい。

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