春の肖像   望月遊馬

春の肖像

春の肖像   望月遊馬

雨上がりの朝
それははじまりの朝でもあるのだが
わたしは
テーブルに朝食をならべる
兄や姉はわらいながら
スウェットをぬいで
弟の頭に被せる
わたしはおきにいりのスカートを
右足にとおして、そっと朝を逃す
そして、この一日を
透きとおってゆきたい
わたしはふと思う
兄や姉が弟の虐待をするようになって
この三年間、
わたしは弟のむこうで
影になったまま
禁止区のように動かない、父を
見守っていた あの水辺へ
父をまっすぐにまなざした、ある朝
ひゅうひゅうと過ぎる冬風を捕縛した彼らは
わたしを
写真のなかに閉じ込めるだろう、
怒りへ
しずかにそれをかさねるだろう 
わたしは弟を抱きしめる
幽霊の母は
漂いながら青い花へくちづける
兄も姉も部活のためにすごすごと家をでて
わたしは弟を幼稚園に送る
「どうして家族は、朝を端緒として、小説の鮮やかな一頁にうつしとるのか」
わたしの睫毛にこぼれる光は
しずかに朝にみちる
母が幽霊になって
この家を漂うようになったのは
きっかり三年前からで
そういえば兄も姉もそのことに気づいていない
そういえば父は
母の墓地に火をはなつ
古い桜のはなびらが 
ひらいて ひらいては
浮かびあがるだろう 少年のきおく 
風は わたしのスカートを膨らませる
わたしのむこうで脳病院が
しずかに ひたひたと漂う ひそやかな、そう 
(甲冑のような死体) 
あれは幻覚だったのか
病室のベッドに縛られた弟
鞭をもつ母
これは決死の
しずけさである
うつくしさとは と父が語りはじめるとき
たとえば美少年が父にくちづけをする 恥じらう父は
まるで処女のようで 

オリヴィエ・メシアンの楽曲
「幼子イエスに注ぐ二十の眼差し」へと耳をかたむける父の
背をすべりだいにして 弟がすべりおりてくる
春の朝を すべりおりてくる
そのとき
わたしはもういちど
息をしたい
すいこんで はいて 
いきものが 息をひきとる しずけさが
青空のように 母に覆われている
きっともうわたしは母を素描できない 幽霊になった母の
ことばを奪った春が もういちど ひとつ ふたつ
降ってくるころ
ふいに、わたしの背を 弟がすべりおりてくる
さよなら わたしのすべりだい 
 

ある日、
弟のために蒸し魚をうらがえしていると
幽霊の母が
れいぞうこの鎌首に包丁の刃をあてて
ひきぬくたびに
森の獣たちを呼んだ
遠吠えはにがく、心にすみわたり
しかし母は ことばを知らない
獣のことばを知らない
ああ あ ことばにならないまま くずおれる
肉親の声に
こたえる ことばを持たない
母はうつくしい三つ編みの髪をかきあげては
かきあげては
汗をにじませて 苦しげで
しばしの漂いの後に しずかになる
弟は つ、とひろがる名指しの桜を
脳病院のふもとに みつける 
だろう
葉桜の幻視は もういちど はなびらを失う薬指の骨
いまでは ぬくもりとして
春を支えている

森に行きたい
水車小屋のある森に
弟の手をひいて
そうすれば いつしか わたしのアパートは
お菓子の家になっていて
迷いこんだ ヘンゼルとグレーテルのように
あの家をもういちど
迎え入れるだろう 魔女の悲鳴を
耳に受けていたはずだ
そんなことを 思いつつ
かたわらで眠る 弟の髪をなでる
なでながら 思う
人魚のように ことばを失ってもなお
ひとの世界に生きる 幽霊の母を
ああ あ ことばにならない
うつくしい 悲鳴
これをわたしは ことだまと
いいたい

弟を寝かしつけた
夕ぐれ
買い物帰りの女たちが
愚痴や世間話をしている
(極彩色の女たちのまわりを熱帯魚が漂っている)
商店街へ わたしは夕食の買い出しにでていて
ひとり
魚屋のむこうに たたずむ すると
しずかに春が降る
だから
きっと、約束だよ
小指をからめて、そうだね
わたしたちは、
あなたのことが好きで、
あなたっていうのは、きっと神様のことで
でもこれは秘密、
だれにもいえない
だれにもわからない

だからわたしは
くちを閉じたままだ

母の死
いや、母はいくども死んでは、また
戻ってきたのだ
くりかえされる この生をいくら運ぼうとも
わたしたちは また くりかえされる

そして
ひとりでに ひとは
柩を削っている

トイレのまえで
弟が
泣いている
(西瓜のような頭がい骨)
わたしは、
朝礼の生徒たちのなか、
いたずらな少女のように、つたう火の
やさしい気もちに、
いっぱいのロコモコ風ハンバーグをほおばって
小さなきみたちを、迎えに出るよ 
「いつしか、校庭の青い、青い、澄明へ、火へ、ぬくむひと」
手をつないで
朝焼けの校庭の影のないすべりだい
揺れるぶらんこ
埴輪のような少女
壺のような少女
弟は
女に手をひかれて
いつか彼が入学したとき
友達が百人できるように
手をぎゅっとつないで
一年生になったら
いいな

アパートに帰ると
父がイタリアの彫刻家について
調べていた
(磔にされた罪人の嬌声にも似た西洋画を
顔に写像している)
ところで田園都市ではいまも
ことばのない
女たちが
境界線上の未来をおもうだろう
弟はすやすやと眠っている
雨で蒸れるへや
しかし雨は降っていない

夕食ができるころ
兄と姉が帰ってくる
冴えわたった雲間の光
これから、がどうあろうとも
桜並木は戦場にはならないから
銃声は幻聴
世界平和は平行線
テロや自縛の支障へと
世界を繋いでゆく
日本にうまれて
生きることの意味を
そこまで深く考えることはない
と思う
幽霊の母にも権利があるということを
仏壇の花が物語っているのだとしたら
わたしが毎朝
献花することにも意味があるはずだ
料理をすることにも
意味があるはずだ
すべてを意味するところがなにか
知るまでに要する時間も才覚も
いまのところ、わたしにはない

夕食をたべながら
思う
弟の平和とはなんだろう
たとえばアンパンマンのおもちゃだ
たとえば温かい鶏肉のスープだ
弟の平和とは
たとえば暁闇だ
わたしは
弟の平和がわたしであって欲しいと
切実に思う
それは母から置き換えられたわたしだ
いや幽霊の母は代替できない
それは
すべてが物語っている
母の匂いは
春の匂いでもある
桜のしたで夢占いをした叔母
ふるいショーツのしたの鞄にある手紙のいくつかにも
見いだせるだろう
(「殺害された木」
が意味するところは
恐らく燃やされた木
ひきぬかれた木であって
つまりは
重婚に苦しみぬいた、つがいの鳥のための
とまり木としての役割を放棄した木
楽園を追いだされた木
といえばわかるだろうか)
幽霊の母は
この桜の木のしたに埋まっている(気がする)
わたしは弟の手をひいて
この木のしたにゆく夢をみる
いつでもそれは新鮮だ
楽園を追いだされた木は
ただそれだけで うつくしい
アダムとイブも
桜を愛せばよかったのだ
そうすれば
匂いに、花びらに、魅了されて
木の実なんて食べたりはしなかったろうに
失楽園
いや、弟はそんなところにはいかない
あ、桜の花びらが ひらひらと つめたい
頬に火が灯る つめたい火が
そう思うと、目が覚める
いつもおなじところで目が覚める

土曜日
花見に行こうという父に
どうしていまさらと
思わないこともない
兄も姉も行くわけがないのだから
どうせ三人でいくのだ
ブルーシートとかバーベキューのセットなんて持ってない
スーパーで弁当を買って
桜のしたで食べるだけ
なにが花見だ
にしても
弟はうれしそうだ
わたしはそんな弟を見てうれしい
父の背を追いながら 風のたかさに近づく
青い山のそこかしこに
桜色が ひろがる
幹の洞には水があって
春の匂いが溜まっている
桜のしたにすわって
お弁当をひろげてみる 
弟は、桜とならんで、また、マーブル色の
カップルが
くちづけをした うつくしい損傷を
す、と
なぞることで にわかに冬はながれ
すこやかに
終わろうとする
春だ

越境というには
あまりにもあっけない県境の
二号線
そこをひっきりなしにゆくバスは
永遠に乗客を降ろすことがない
廃車の 朽ちた鉄のかたまりは 乗客に
ずっとそばにいて、と囁いているかのようで
しかし、遠雷が聴こえるとき 
バスは庭園をすぎて遠ざかってゆく
とうめいなバスは、遠ざかってゆく
桜の花びらを窓枠にみつけて ひろいあげて
バスは 
しずかに解体する
花飾りを、ほどいてゆく そう、うつくしく 
焦がれている
そのころ わたしと弟と父は 
桜のしたで 死体のように 横たわっている
ココハドコ?
シラナイケレドモ、シショウハナイ
父のことばが
海へと流れる
桜の花びらが
海へと流れる

きみの孤独は うつくしいね
きみへ宛てた
手紙はいつも苦しみに紛れて
それが どこか心地よいね
わたしそびれた花びらの手紙は いつも
ひらひら浮かんでいるから
わたしは
桜を抱きしめた父の口元に春をひろいあげて
指のさきで ふっと 消す
おもえば 思い出はいつも かなしくて  
そっと、かさねられるだろう、春へ

きみの孤独は うつくしいね
きみへ宛てた
手紙はいつも苦しみに紛れて
それが どこか心地よいね

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