かげろうの詩2―やや長い前書きのついた俳句 筑紫磐井

かげろうの詩2―――やや長い前書きのついた俳句 筑紫磐井

 藤井貞和の詩(「詩客」6月3日号)を読んで、ひさしぶりに魂のふるえる感じがした。現代詩人の中でも藤井の詩は比較的読んでいると思うが、「詩客」で久しぶりに読んで、藤井らしい思いと藤井らしからぬ思いが交錯した。
 今回の地震を読む詩人に(或いは俳人、歌人も含めて)、詩は何の力もないという発言が浴びせられた。詩は何の力もないか?
 かって大佛次郎の時代小説を読んで感心したことがある。司馬遼太郎とは比較にならないインテリジェンスを持ったこの小説家(『巴里燃ゆ』『ドレフュス事件』『地霊』を読めば明らかだ)は、幕末の運動を「違勅」という言葉で捉えていた。天皇の勅許を取らず鎖国を廃止し開国すること、ーーー日米和親条約を締結することをいう。もっとも開国にあたり天皇の裁可が必要であったかどうかは疑問があるが(鎖国は徳川家光の祖法とされる)、当時の人はこうよんだ。いや、勤王派の一人がこう叫んだだけであったかも知れないが、しかしこの言葉は幕末全体にわたり拡がり、幕府に棘のように刺さり、その毒で幕府は倒れたと認識している。「違勅」という、ガサツで、政治性を持った、扇情的なこの単語に大佛は注目していたようである。
 私はこのことばを「回天」の語と考えている。天命を大きく替える一言である。
 今回詩人が、俳人が、歌人が求めているのは、実は長い言葉ではなかったかも知れない。1編、1句、1首の中に回天のことばを吹き込みたいと思っているのではないか。美しいことばでも、肌触りのいいことばでも、雅なことばでもない。ザラザラとして、政治的、社会的な拡がりを持つことば、ある人々をいらだたせ、ある人々をアジテートする生なことばだ。
 だから、一部の人が言ったように、詩に力がないのではない、回天の力を持つことばのない詩があるだけなのだ。
 藤井の詩を見て、回天のことばを求めている詩人を感じた。

 では、なぜ、旋頭歌なのか。回天のことばはよりましのように、憑依する対象を選ぶ。藤井はそう考えたのではないか。

 一島の滅びしことを史書は書かず

 あそこが南波照間その向こうがニライカナイ

鷲(ばし)ぬ鳥(とる)辞まぬ総理が東(あがる)かい飛びちけ

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「作品 2011年7月1日号」の記事

  

One Response to “かげろうの詩2―やや長い前書きのついた俳句 筑紫磐井”


  1. 堀本 吟
    on 7月 5th, 2011
    @

    筑紫磐井さんの句と長い前書きに。
    「回天」の言葉・・ですか。藤井貞和氏の「詩」もさることながら、筑紫磐井氏が書いた長い前書きの内、同感したのが、司馬遼太郎と大佛次郎の比較、。
    また、
     一島の滅びしことを史書は書かず 磐井
    これは、「回天」には到らないかも知れないですが、やや、琴線に触れてきます。
     山茶花やいくさに破れたる国の 日野草城
    とか、宇井十間の『千年紀』とか。想い出されます。
    「戦後俳句史を読む」コーナーで、「国が滅ぶ」ことへの俳句的想像力をたしかめてみませんか。すこし時間がかかるけど、個人的にでもしらべて見ます。

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