自由詩時評 第62回 田中庸介

クアルンゲの牛とは何か

『トーイン クアルンゲの牛捕り』(キアラン・カーソン/栩木伸明訳、東京創元社、2011年12月刊)は、とにかくおもしろい。古代アイルランドの英雄叙事詩を北アイルランドの現代詩人カーソンが英訳して出版したものを、さらに栩木氏が日本語にうつしたものがこの本である。それぞれの場面で語調が工夫されており、訳語はすごくこなれている。読みやすくて実に楽しいし、多々挿入される詩の翻訳も、文体がしっかりしていて無理がない。さらに、古い時代の詩の機能というものは、情景描写のみならず、預言あり、祈りあり、問答あり、契約あり、詠嘆あり、諷刺あり、と決して一通りではないことがよくわかる。軍勢には詩人が必ずつき従い、ドルイド教の祭司とともに「予知能力」を発揮している。何と、詩の学校や見習い詩人なんてものもあったらしいのである。そして井辻朱美氏が巻末解説で指摘しているように、それぞれの説話は、今ある地名の由来として現時点へと接続されている。日本の記紀であれば八百万の神の由来へと接続するところだろうが、あらゆる地点に説話がマッピングされることによって、北アイルランドの大地には豊かな物語のトポスが形成されている。

 コナハト国の女王メーヴは、だんなである王との財産比べの結果、どうしても「アルスター国はクアルンゲの地に住まいいたすダーレ・マク・フィアハナの持ち牛でございまして、名をドン・クアルンゲ、クアルンゲの褐色の雄牛と申します」という牛が欲しくなり、アイルランド連合軍を結成してアルスター国を攻める。アルスター国を追放された戦士フェルグスがその先陣をつとめるが、アルスター国では「クー・フリンとその父スアルダウを除くすべての戦士達は、呪いのために弱りきって床に臥していた」。

 ところが、このクー・フリンこそは、殺人マシンのような超人である。メーヴ率いるアイルランド連合軍の大軍勢を敵に回してゲリラ戦、白兵戦、投げ石などさまざまな闘いをたった一人で繰り広げ、そのたびに身体を「トルク」により異形の者へと変形させつつ、連戦連勝。以下に引用する幼馴染のフェル・ディアズとの決闘に到るまで、死力を尽くして戦い続ける。「あまりの接近戦になったため、両者の槍先が先端から鋲留めしてある部分にかけて、たわみ捻れた。あまりの接近戦になったため、両者の剣と楯と槍の先端がしのぎを削る、耳をつんざく轟音が、谷間に住む小鬼や悪鬼や妖精達がたてる泣き声や金切り声とこだまして、響き渡った。あまりの接近戦になったため、川の流れが道筋を逸れ、偉大な王と女王の墓室にできそうなほど広々と干上がった。浅瀬の川底には、両戦士が踏みにじって泥をはね飛ばしたしぶきを除けば、一滴の水もなかった。あまりの接近戦になったため、アイルランド連合軍の馬達は後ろ足で総立ちになり、狂ったように後脚を蹴り上げ、縄を逃れ、手綱をはずし、つなぎをすり抜けて逃亡した。女達や、子供達や、若者達や、足の悪い者達や、血迷った者達も、野営地を抜け出して南西の方角へ遁走した」。

 この節では、「あまりの接近戦になったため」という文句が、過剰に四回も繰り返され、リズムを作っている。それぞれの部分においても、およそ考えつくかぎりの名辞が列挙されることが文体的な特徴になっている。だが、これらはすべて「あまりの接近戦になった」ということを強調せんがための修辞であって、そうすると、読者は物語の進行よりもテキストの快楽に奉仕するような、豊かな時間性の中にたゆたうこととなる。それは実に、韻文本来の醍醐味にほかならない。

そんなふうにしてこれを読み進めていくうち、幻想こそは文明社会に遺された最後のウィルダネスである、という命題を深くかみしめることとなった。白日夢のようなファクチュアルな幻想にいろどられ、民俗の中に永く共有された作者不詳の叙事詩こそは、われわれの自意識の閾を打ち破る最高の武器となるかもしれない。詩を書くものは、表現を内面化する過程にあって一度は「この作品を書いている自分」の存在というものに思い当たり、赤面のあまり足がすくむような気持ちを体験するだろう。それはいくぶん厄介な存在である。そもそも文学という装置は作品の存立のためにあるもので、詩人の実存のためにはまったく奉仕しないのにもかかわらず、一人称の文学たる現代の詩歌はその存立のために、固有の実存の開示を要請する。写生の文学をつきつめていくと、この自意識の閾と闘う自分を写生することこそがもっともラディカルであるかのように思えてくることもある。だがそこにこそ、もっとも現代的な落とし穴がある。自意識の閾との真正面からの取り組みは自意識そのものを強化こそすれ、決して自意識への恐怖を解決することにはつながらない。するとわれわれはちょいと気持ちがアガったようになってしまい、メタ化した言語の地平からなかなか帰ってこられなくなるのである。そんなとき、幻想や夢の世界には、意識的にコントロールしえない自我の下部へと潜りこみ、それを支える大地へとわれわれを導いていってくれる力がある。そこに流れる悠久の時のおおらかさは、今も昔も変わらずありつづける、本質的でファクチュアルな何ものかについて、はるかに雄弁にわれわれに語ってくれているような気がするのである。

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