自由詩時評 第77回 田中庸介

「しないこと」を狩る

 カルロス・カスタネダは『イクストランへの旅』(真崎義博訳、太田出版)において、「すること」ではなく「しないこと」を狩る、という究極の「狩人」のありようを書いている。世界の陽の部分の合間には、すべからく陰の部分が存在しているけれども、わたしたちはその陰の部分の本質を、どのようにしたら手にすることができるのだろう――。

 このたび刊行された、細田傳造氏の還暦過ぎの第一詩集『谷間の百合』(書肆山田)を拝読する。これほどまでに、そこに何が書かれているか、ということよりも、そこに何が書かれていないのか、ということが気になる詩集は珍しい。エロスとタナトス、半島と日本、たたかいと和解、血と追憶などの重い主題がこれでもかこれでもかといわんばかりに詰め込まれているが、言葉の風通しがよく、まるで息苦しさを感じさせない。それは、世界の八十パーセントの陽の部分をちょうど八十パーセントくらいの力で書ききっているというような、作者自身のバランスの良さによるものだと思われる。そしてあとの二十パーセントの陰の部分の存在は、読者の想像力によって現前させることが期待されているようでもあって、読むものの心の奥行きがありていに問われてくる。詩集は、みずからの出自である半島への想いを胸に、〈パンチョッパリ〉(=半端野郎)というタイトルの詩でしめくくられている。八割の陽の部分に軸足を置きながらあとの二割の陰の部分でつねに闘いつづけるような、このマージナルな身のこなしの軽さは、余人にはなかなか真似ができるものではないもののように思う。どの詩もおもしろかったが、中ほどから一篇を引いてみよう。

黒いアスファルトの道を 
白い犬が一匹 
すたすたと歩いていった 
くるまをとめて 
よぼよぼ犬よ どこへ行くんだ 
声をかけたが 
知らんぷり 
振り向きもしないで 
峠を越えていった 
あーりらん 
あーりらん 
あーらりお 
峠に 
花も咲いていたが 
花の色はおぼえていない 
あしたから 
秋夕チユソクがはじまる

 * アリラン=韓国の民謡、歌の間に投入される詞。意味はない
 * 秋夕(チユソク)=韓国のお盆

(「アリラン」)

これは、例の有名な民謡から「アリラン峠を越えていく」(아리랑고개로 넘어간다)という部分をフィーチャーした一篇である。なにやらいわくありげな「白い犬」は一心不乱に作者を先導して、アリラン峠にさしかかる。「よぼよぼ犬よ どこへ行くんだ」「声をかけたが/知らんぷり」などのリズムは一見すると「意味はない」ように見えるが、深沢七郎の楢山節のように、極度にシリアスなものの存在を、ある剽軽さでやりすごす民俗の味と思ってよい。

 道は黒く、犬は白かったのに、峠に咲く花の色は「おぼえていない」。百人一首の「花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに」(小野小町)は、絶世の美女と言われた小町が、盛りをすぎたわが身を嘆くものであったかと思うけれども、そこのところはもはや問題とするまでもない歳となり、作者は淡々としている。だが、のんびりしたオノマトペの三行から調子は急に暗転し、この出来事がお盆の前日だったという結語を迎えることによって、夢の中のように色彩感を失ったアリラン峠がこの世とあの世をへだてる境界のように突然感じられてくる。この呼吸が実にドラマティックだ。「知らんぷり」をする白い犬は、作者に「死」をつきつけ、タマシイを先導するスピリチュアルな存在ではなかったか。

 だが、そこまで明示的になにかが語られることはない――。作者もわざわざ「くるまをとめて」タマシイのよぼよぼ犬にちょっかいを出しただけあって、峠に花が咲いていたという事実だけをしたたかに眼裏にたたきこむことに成功している。孫の「かけるくん」と「じい」との決闘を描いた他の佳篇の数々にも通じるが、恐れずしりごみせず、世界との人間臭いやりとりを作者はひょうひょうと敢行し、世界の八割を手中におさめ、なにがしかの実業的成果をあげ、子孫を育み、人生を豊かなものにしていく。それこそが本書の陽の部分の主題である。

だが、その敢行の結果として、たとえば世界に「知らんぷり」されてしまうような陰の部分にも遭遇せざるを得ない。残り二割の見えない部分は、主体が統御するということのできない陰の部分だ。その部分の恩寵のようなあらわれにこそ、カスタネダのいう世界の「力」の本質が存在すると思われる。細田氏において、そのような陰の部分の暗示は感情的な表現を排しつつ、実に繊細に巧妙になされており、世間の荒波を乗り越えてきた作者の品格を感じさせる。氏は天童大人氏の〈詩人の聲〉プロジェクトを永年熱心に観覧したところから、詩人としてのスタートを切ったものと聞いている。世界の見える八割の「すること」だけではなく、見えない二割の部分の「しないこと」の力をも、〈不作為の作為〉のようにして狩ろうとして、氏もまた、すべからく詩をつむぎ続ける戦列に加わったに相違ない。いま日本の現代詩はこの詩人の誕生によって、まったく独自の、ファクチュアルでスピリチュアルな一歩を、新たに踏み出そうとしている。

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