―テーマ:「冬」その他―
赤尾兜子の句/仲寒蝉
帝都空襲瞶(み)つつ水洟押し拭ふ 『稚年記』
若き日(昭和20年の作とすれば20歳)の兜子の姿。この帝都空襲は昭和20年3月10日の所謂東京大空襲なのだろうか?
昭和19年6月15日サイパン島に上陸したアメリカ軍は6月17日アイスレー飛行場を占領、7月23日にはテニアン島(サイパン島のすぐ南に位置し、北マリアナ諸島を形成する)に上陸しノースフィールド基地を整備。この2つの基地から飛び立ったB29によってアメリカ軍は昭和19年11月24日の武蔵野市中島飛行機工場空襲以来、首都(当時は帝都といった)東京に対して106回の空襲を行ったと言う。実はこれを遡る昭和17年4月18日、ドーリットル空襲という冒険的な本土空襲があったようだが、日本を遥かに離れた洋上の空母から継続飛行距離の長い陸軍機を飛び立たせて空襲後は同盟国である中国本土に着陸させるという単発的な作戦だったから後が続かなかった。
兜子は帝都空襲をどこで見たのだろうか。実はこの句は『稚年記』の二つの章のうち後の方「征前裡吟」に収められ、「新聞を見るに」の前書を持つ。つまり実際に眼前に見た訳ではなく新聞の写真と記事を通して「瞶た」のである。「征前裡吟」の最初の方には「B29に襲はる」との記述もあるからこのあたりからB29による本土空襲が始まっていた。掲出句の1句前には、
極月と思ふも後日餘なし
の句があるのでこの帝都空襲はいわゆる昭和20年3月10日の東京大空襲ではなく昭和19年11月24日の初空襲を指すと考えられる。本土が直接空襲され始め、いよいよ帝都上空にも敵機が現れた、ということで大本営発表に騙され続けた国民も流石に戦局の不利を感じ始めていたであろう。
「瞶る」とは難しい漢字である。角川の大字源に拠ると、もともと旁の「貴(キ)」はその音から「遺」「既」に通じ「失う」「尽くす」の二つの字義を持つ。そこから「眼疾、視力を失うこと」と「視力を尽くして見る」の二つの意味が生じたようだ。従ってこの句の場合、ただ見ると言うより「見つめる、見尽くす」というような意味合いらしい。国が滅亡するのではないかとの予感を抱きながら食い入るように新聞に見入っている一人の青年の姿が浮かぶ。
このとき兜子はどこにいたか。『赤尾兜子全句集』に付された年譜の昭和19年の項によると「戦争激化のため在学期間短縮で九月に繰上げ卒業して帰郷」、さらに翌昭和20年の項には「一月、東京世田谷の陸軍機甲整備学校へ特別甲種幹部候補生として入隊」とある。卒業したのは大阪外国語学校、帰郷の先は姫路の網干である。従って昭和19年の暮には姫路の実家にいたことになる。
では先に述べた「B29に襲はる」という記述はどの空襲を指すのだろう。句集の順序からするとこれは掲出句より前であるから昭和20年3月の大阪や、況して同年7月の姫路の空襲ではあり得ない。実はマリアナ諸島から発進するB29の攻撃より先、中国本土からのB29が主に九州を目標に飛来していた。昭和19年10月には長崎県大村市、11月には熊本が空襲に遭っている。恐らくこれらの出来事を指すものと思われる。
さて、東京へ移った兜子を今度こそあの東京大空襲が襲う。昭和20年3月10日、焼夷弾を使って非戦闘員の民家まで焼き尽くす残虐な作戦により東京は焦土と化した。B29の大編隊が東京に向かったのは3月9日夜、爆撃は10日午前0時過ぎから未明に亘って続いたそうだ。兜子の年譜によると「東京空襲を目撃、都民の救出トラックで出動」とある。我が子を隠す穴を掘ろうとしたのだろうか、赤ん坊の上に覆いかぶさるようにして息絶えた若い女性の死体の両手の爪が全部剥がれていた、という凄惨な話も残っている。兜子もまたそのような惨状を目にしたに違いない。
気象庁のHPから過去の気温のデータを調べると昭和19年から20年にかけての冬は戦時中で最も寒さが厳しかったようだ。次に寒い冬が来るのは昭和24年である。昭和20年3月には平年並みに戻るが10日はまだ寒さを引きずっていたのではなかろうか。残念ながら1日毎のデータがないのでそこまでは分らない。だが暖冬と言われる昨今でもこの時季の、況して夜はまだまだ寒い。前年には姫路の実家で水洟を拭いながら新聞を通して見た帝都空襲を、この日は寒さと残酷さに震えながら目の当たりにしたのだ。その時、青年兜子の胸にはどのような思いが去来したのだろうか。
楠本憲吉の句/筑紫磐井
昭和57年12月という時点は、憲吉を見ると面白い時期である。この月、健吉は還暦を迎える(26日が誕生日)。
その1か月前から弱気な句があふれる。
寒く剃り寒く呟やく「還暦か」
自鳴鐘カンレキといま零時打つ
冬灯ちりばめK氏遺愛のボールペン
12月になると、
多岐多雑多弁多職で今年も昏る
更けて柚子湯に恋潰すごと柚子潰す
いつも冬愁苔を撫でれば苔妻めき
師走二十六日いま死ねば憲吉忌 炎ゆ冬バラ
死ねば野分が葬送してくれるか君らの怨歌
一見反省に満ち満ちているようだ。ちなみに、「死ねば野分」は加藤楸邨の「死ねば野分生きてゐしかば争へり」を借用したもの。憲吉にはこの類が多い、自分他人を問わず洒落た文句は共用と考えていたようだ。それでも、六十歳という節目の年は憲吉も粛然とする思いを抱かないではいられなかったのだろう。
しかし、性懲りのないのが憲吉という人。
ハンドバックは男のポケット愛経て恋
ポインセチアの緋が訴える遅き帰宅
同時期にこんな句を詠んでいるし、翌年には、
島擁く港私を繋ぐあなたは虹
街は傘咲かせあなたはオベリスク
窓に虹のけぞる七彩 女体も亦
と憲吉調が絶好調である。さて話を戻して、
多岐多雑多弁多職で今年も昏る
を裏付ける活動を上げてみよう。
『春の百花譜』『食は「灘萬」にあり』『美味求心』『女ひとりの幸はあるか』『みそ汁礼讃』『会社の冠婚葬祭』『食べる楽しみ・旅する楽しみ』『洒落た話のタネ本』『東京いい店うまい店』『結婚読本』『女が美的に見えるとき』『言いにくい、困ったときの話し方』『全国寺社めぐり』『味のある話』『手紙上手になる本』などなど。この1~2年書いた本であるが俳句関係はほとんどない。おそらく憲吉がすっかり吹っ切れた時期がこの年であったのではないか。シニカルながら安住の地を見つけた楽しさがある。
以上すべて『方壺集』。
堀葦男の句/堺谷真人
カレンダー配るやさしく打つ真似して
『山姿水情』(1981年)所収の句。
師走になると、新しいカレンダーが刷り上がり、取引先や社員に配られる。フォトジェニックなモデルを起用した大判ポスター風のもの、コンパクトで実用的な卓上型、花鳥画をあしらった掛け軸タイプなど意匠も仕様も千差万別である。経費節減の近年、たとえ部数はぐんと絞られても、相手先の自宅や職場で社名や商品名を長期間継続的に露出できるカレンダーは、手頃な宣伝物として依然重宝なアイテムなのだ。
葦男の第四句集『山紫水情』は1975年から1979年までの作品を収録する。日本経済が第1次オイルショックの苦境を脱し、再び成長軌道に乗った頃である。当時、歳末の挨拶として今よりずっと多くのカレンダーが流通していた。葦男は繊維業界の団体に勤務していたから、職場には服地メーカーやアパレルメーカーのものも届いたはずだ。最新モードに身を包んだファッションモデルたちが颯爽と闊歩する華やかな意匠。丸めたカレンダーで相手の肩をぽんと打つゼスチュアからは、美しいものに感応した女性職員の心の弾みのようなものが伝わってくる。
それにしても何と明るく軽妙なスケッチであろう。過去に葦男が描いた職場風景からはおよそ想像もつかない明るさと軽やかさである。比較のため、第一句集『火づくり』最終章「火の章」から引いた次の10句を見て頂きたい。
動乱買われる 俺も剃り跡青い仲間
信に遠きことばかり鉛筆の濃緑削ぐ
午前の憤(いか)り首大の球壁へ打つ
夜は墓の青さで部長課長の椅子
事務の波間に黒の無言の島沈む
靴の中の指らの主張寒い会議
見えない階段見える肝臓印鑑滲む
ある日全課員白い耳栓こちら向きに
リコピー書類他を焦がす汚染する友情
揉み捨て鳴るセロフアン空席者の意見
1956年から1962年にかけて、40代前半の葦男が描き出した職場風景はこのように陰鬱極まりないものであった。動乱を商機とする背信の日々。上司や同僚、部下との間に育つ疎外感。そして、組織の中で汚れ、疲れゆく個。葦男は職場の日常の随所に露頭を見せる「極限状況」にとことん向き合っていたのである。この間の消息については、以下の金子兜太の評語に譲るのが良いであろう。
葦男の感性にある暗さ(中略)が批評意識によって刺激されて募りつつ、批評をより暗鬱に盛り上げていくことにもなって、こうした作品がつくり出されたことは間違いない。当時の社会情勢に向って意識的に批評的に自己表現しようとするとき、誠実な人柄だけに過剰反応していて、その結果のことといえなくもない。
(遺句集『過客』序 1996年)
まったくの余談ながら、東宝映画の社長シリーズ第1作『へそくり社長』(森繁久彌主演)が公開されたのは1956年、同じく東宝のドル箱となったクレージー映画第1作『ニッポン無責任時代』(植木等主演)が公開されたのは1962年のことである。これらの娯楽映画と葦男の作品が同時代のサラリーマン社会の空気を背景に生み出されていることは確認しておいても良いかもしれない。
近木圭之介の句/藤田踏青
しんしん雪 荷造りされた私の骨が
しんしん雪 荷造りされた私の骨が
しんしん雪 荷造りされた私の骨が
しんしん雪 荷造りされた私の骨が
「ケイノスケ句抄」(注①)所収の昭和56年の作である。ただこの句には「雪のうた」
という題があり、しかもこの全く同じフレーズが四行にわたって表記されている。この句集に於いてこの様な表記がされた例は他に「砂丘へ誰が菜の花をすてたのか」
の三行表記があるのみである。「砂丘へ・・・」の句の場合は、その句の前提として「果実をおく 砂丘の時間匂う」「砂丘のなか残響が 月に海に私」
の句が据えられており、その三行句の後にも「幻想空間砂丘におれが墜ちてゆく」
の句が置かれており、これ等砂丘の連作の中での時間の流れの一つの休止的な役割を果たしていると見て理解出来る。しかるに掲句の場合は全く単独に置かれており、作者としてはかなり意識した構成となっている。所謂、句集という形態の中でこの様な表記を行うことは高柳重信の多行表記とは又異なる位置と目的とを示すものと考えられよう。この同じフレーズの四行表記が示すものは、自画像が降り積もる雪のごとく次々と自問自答してゆく様ではないであろうか。そして私の骨から逆想された世界を故郷の金沢に見い出しているのではないであろうか。この様な思いは後年、下記のような句となって再出していく。
肉が骨が無防備 冬銀河 平成7年作
冬銀河の前では人間という私という存在がいかに小さく無防備なことよ、と呟いているかの様である。そして人生という肉から骨への時間的な経過も、この壮大な宇宙時間の中では認識され得ないものの如くに。
心象風景としての冬の自画像としては下記のような作品もある。
自画像の黒い目の奥の雪の風車 昭和30年作 注①
自画像の顔の左右分離して雪の風車 昭和40年作 注①
この自画像と雪の風車とは相対峙する存在なのであろう。黒い目の奥にある雪の風車とは、それによって起こされる吹雪の為に視界を妨げるものであり、その目の黒と雪の白との対比も併せ持っていよう。また、顔が左右分離するほどの風圧は自意識の分裂さへも示唆しているのではないであろうか。
講義は続いている テキストに冬蝶が止まって 昭和51年作 注①
美学とノオトの無い肖像。中国山系葉がふる 昭和52年作 注①
幹の内部わたしが冬へ傾く 昭和58年作 注①
この講義とノオトは現実のものではなく、社会に於ける人生そのものの背景を暗示しており、冬蝶への一瞥はその中でのひと時の安らぎと疑問符かもしれない。また前句は画家としてのデッサン力を上手く生かしており、それは後二句の実景描写から導き出された美意識と心象風景へと還元されてもいるのである。
冬の実よ 異郷にきて噛む一つ 平成3年作 注②
家族に噛みついた死者よ 冬野よ 平成6年作 注②
異郷ゆえに噛みしめる冬の実の固さ、そのしみじみとした味わいが孤独感を深くするようだ。一つは独りに連なり沈潜してゆく趣がある。
この死者の過去世は如何なるものであったのか。家族に噛みつくという行為はある種の反抗であり、しがみつきでもある。それ故に冬野は冷徹な判者でもある。
再び掲句に戻るが、この様な表記法からはやはり詩人としての圭之介の面が押し出されてくる。最後にテーマにそった詩1篇を。
「冬の街」 昭和27年作 注③
街の坂をおりてゆく
港はくれ早く
下方の白い建物の地下は
キャバレーである
無数のうでが人体に生え
おんなの媚態を
くうきがあやうくささえる
地上では寒い風が
骨のような木をささえる
注①「ケイノスケ句抄」 近木圭之介 層雲社 昭和61年刊
注②「層雲自由律二〇〇〇年句集」合同句集 層雲自由律の会 平成12年刊
注③「近木圭之介詩抄」 近木圭之介 私家版 昭和60年刊
稲垣きくのの句/土肥あき子
短日や灯ともし頃の小買物 句帳より
昭和12年と16年のきくのの句帳が手許にある。といっても、メモ書きのそれではなく、12年は改造社版の俳句日記、16年は和紙綴じの美しい一冊で、どれも完成した作品が並んでいるため、投句の際の覚書と思われる。俳句の前には「一月六日渋沢邸句会」「六月一日特急アジア」など出席した句会や、旅吟の場所などが書かれており、掲句の前には「ホトトギス 昭和16年2月号」とある。
ホトトギス誌を確認してみると、確かに該当号の虚子選一句欄に掲句を見つけることができた。しかし、前後1年をぱらぱらとめくってみたが、この他にきくのの投句を見つけることはできなかった。
きくのが俳句を始めて以来投句を続けていた「春蘭」は、主宰大場白水郎の満州転勤に伴い昭和15年6月号で終刊となり、同年10月に「春蘭」同人であった岡田八千代が中心となって白水郎を選者に「縷紅」が創刊された。誌名は白水郎の別号であった縷紅亭による。昭和19年1月号で休刊となる「縷紅」だが、バックナンバーが確認できるのは昭和17年8月号、18年8月号、9月号の3冊きりである。昭和18年9月号にはきくのの住まいが投句先として表示されている。
ホトトギス投句の時期は、「春蘭」終刊後、「縷紅」と並走してということになる。
ホトトギスとの関係は、白水郎も、のちに所属する「春燈」の主宰になる万太郎も、ホトトギス題詠選者岡本癖三酔が指導する三田句会に属していたこともあり、きくのが「ホトトギス」に目を向けたとしても別段不思議はない。
しかし、ホトトギス掲載の前後の作品を並べてみると、昭和15年「春蘭」3月号には
初髪に觸るる暖簾ットかはし
「ット」はひょいとかわす態であろう。この自在な言語感覚!
また昭和17年8月号「縷紅」には
藻の花や相觸れし手のただならず
藻の花やなんにも云はず別れませう
と、正調きくの節ともいえる作品が並ぶ。
冒頭挙げた「ホトトギス」掲載の句に立ち現れる柔順な女性像もまたきくの自身であることは間違いないが、それでも1号限りでホトトギス投句をあきらめたのは正解だったのでは、と愚考する。
三橋敏雄の句/北川美美
こがらしや壁の中から藁がとぶ
冬が来る。突風がごうごうと凄まじく吹き渡り戸を叩く。何かが飛んでいく音がする。疾風の中に藁が混じって飛んでいくのである。土壁の中にある藁である。壁の中で粘土に混ぜられ埋め込まれている藁が飛ぶのだから通常ではありえない風景であり、超現実的(シュール)と言える句だと思った。街が荒野となり、心の荒び、あるいは叫びのようなものを感じる。
「凩・木枯」は、秋の末から冬の初めにかけて吹く、強く冷たい風のことである。木を吹き枯らすものの意味がある。東京・大阪限定として「木枯らし一号」「木枯らし二号」などの冬型の気圧配置になったことを示す気象用語でもあり、風速8m/s以上の北寄りの風であるらしい。枯葉を吹き散らし擂粉木のように木を丸裸にしてしまう風。
初めてこの句に接したとき、その発想、その創意に驚いた。時を経て、東日本大震災を契機とし、それは幻想ではなく、実景ではないかと思い始めた。北関東地区には蔵を多く持つ家が残存し、多くは土壁が剥がれ落ちる被災状態を目の当たりにする。剥落後の壁の中に確かに藁が埋め込まれている。考察するに江戸時代の藁だろうか。ドライハーブを越え植物のミイラである。壁の剥落を見ているうちに、同じような風景を敏雄も見たのではと思えてきた。句の制作年は終戦直後の昭和21年であり戦争の爪痕が激しく残っていた時代である。
土壁は、木舞(こまい)と呼ばれる竹と藁で編んだ格子状の枠組に粘土質の土と藁スサを混ぜたものを塗り込んでいく日本の伝統工法である。竹、土、そして藁という自然の素材は製品完成後も呼吸をしている。掲句の「壁」という一見無機質な言葉に隠れているのは、「土」という粘り気のある天然素材である。「土着」「土地」というように土の上に人が暮しているのである。掲句は、家、家族の崩壊とも読めなくない。以下の句もある。
しづかなり一家の壁の剥落は 『長濤』
前回でも触れた、昭和21年頃の敏雄の作品には古俳句の風格漂う句をみる(*1)。敏雄26歳の枯れぶりには驚くばかりである。新興俳句弾圧の二次的な傷が古俳諧に向かわせたのだろう。同年、敏雄は渡邊白泉、阿部青鞋との再会を喜び合い、歌仙(*2)を巻いている。白泉が檜年、青鞋が木庵、そして敏雄が雉尾という俳号である。句そのものも古俳諧の趣があり、江戸の華やかさに通じる終戦の解放感がある。同じ頃、三鬼との師弟関係、今後の俳句創作について混沌とした時を過ごしていた時期とも一致する。後の昭和23-26年の4年間、敏雄は作句を中断する。
冬の到来を告げる「こがらし」は淋しく凄まじい。山々が唸り、バケツが飛び梯子が倒れる音も、荒々しい命がそこにあるようだ。疾風とともに藁が飛びゆく音を壁の内側でひっそりと聞く人の吐息をも想像する。冬の眠りにつくものも何処かで息をしている。作句中断が敏雄における「冬の時代」ならば、その間も波の間で息をする敏雄がいる。
*1)昭和21-22年の終戦直後の作品は、三冊目の句集『青の中』に「先の鴉」と題し42句収録。上掲句は巻頭に置かれている。
*2)歌仙『谷目の巻』とし、「俳句研究」昭和22年4月号に発表。弾圧によりほぼ消滅していた句を収集し敏雄が編纂に尽力した『渡邊白泉全句集(沖積舎)』に収録。