- 近木圭之介の句/藤田踏青
- 稲垣きくのの句/土肥あき子
- 赤尾兜子の句/仲寒蝉
- 齋藤玄の句/飯田冬眞
- 青玄系作家の句/岡村知昭
- 上田五千石の句/しなだしん
- (戦後俳句史を読む)「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会⑨(仲寒蝉編集)
出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会) - 9.遷子が当時の俳壇から受けた影響、逆に遷子が及ぼした影響について
- 9のまとめ
近木圭之介の句/藤田踏青
汽船が灯り月夜の切符二枚重ねて切られる
「ケイノスケ句抄」(注①)所収の昭和42年の作品である。意味深長な切符二枚はまるで映画のワンシーンの如く、月夜の下にその対象へカメラがズームアップされ、そこからドラマが始まる。そして切符が重ねて切られる事によって二人の関係とそれを切る船員の視線をも意識させられる構図となっている。七・七・七・四の二十五音の自由律俳句特有の長律句であるが、それによって情景が鮮明に浮かび上がり、ゆっくりとした時間の流れさへも感取される。定型句ではこの情景をこのように一つの構成としては纏めきれないのではないか、と思われる。また、この句は次に掲げる連作中の初句であり、それらを含めて時の流れを味わうのもよろしいかと。
船首に月があるのはそれとして旅立つ 昭和42年作 注①
船首月にむけておって或る日の乗客 々 注①
岬の月の時刻を通過する汽船 々 注①
汽船が一隻月を消し沖へ出て行く 々 注①
まるで月はその目的であるが如くに汽船がそれに向かって出て行くが、やがては月も汽船も二人の乗客の姿も画面から消え去って行く存在なのである。またそのドラマ性は圭之介の短詩にも共通して表われている。
「パレットナイフ 10」 Ⅲ 注②
消えゆく月と潮流にひそむ変異態
事象は浮き沈みのなかを夜から未明まで
――詩稿未完
消えゆく月と潮流に浮沈する事象とが暗示するもの、それが未完故にドラマの印象が一層際立ってくるようにも思われる。
俳句特有の花鳥風月ではないが、やはり「月」の句は圭之介の句稿の中で最多であった。そして「月」に対峙する存在として「沼」や「死」を取り扱った作品も多くみられた。
「月」と「沼」
孤独の沼の真ン中の月になる 昭和24年作 注①
月がこんばんわと沼になる 々 注①
非具象の月が黒い沼に溶解する 昭和39年作 注①
微笑が沼のまんなかの月になる 昭和40年作 注①
沼に月は置いてきて もう落ちた時分 昭和49年作 注①
「月」と「死」
死がくる家の月夜の中の木 昭和29年作 注①
ついに最後 蒲団の裾に月さしている 昭和31年作 注①
死への過程月影が屋根を重ねる 昭和40年作 注①
死のすでに月を暗うしている家 昭和42年作 注①
沼は月と照応する存在として、また同化する存在として位置しており、死は月に包含される存在として表現されている。空間と時間を象徴するかのような月という存在。この様な月に対する感覚は果してどの世代まで受け継がれてゆくのであろうか。
注①「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊
注②「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会 平成17年刊
稲垣きくのの句/土肥あき子
つひに子を生まざりし月仰ぐかな
第一句集『榧の実』に収められたきくの56歳の作品である。
わたし自身に子がないこともあり、掲句の「つひに」のひと言には身を切るような痛みを覚える。
人間としての充実した時間はこの先まだ続くが、子が生める時代は無情にも限られている。自分で選んだ人生と胸を張ることができても、あるときふと子を残せなかったことへの後悔と罪悪感が胸に湧かない女がこの世にいるだろうか。
月を仰ぐとは、同じシルエットでありながら大樹や青空を見あげる健やかさとは対極にある。その姿は切なさであり、ひそやかな懺悔を感じさせる。集中に並ぶ
隠すべき涙を月にみせしかな
も掲句に続く嘆きの涙であろう。
月は愁訴を吸い込むために夜空に穿った穴のごとく口を開け、女はあふれる涙を夜の闇で包む。そして、月に放った詮ない思いをまた胸の奥にたたみ、日常という時間に戻っていくのだ。
きくの作品には時折輝くような少女が描かれる。それらは過ぎ去った日への羨望というより、まばゆい若さへの讃歌と、美しいものを愛でるような手放しの喜びが感じられる。
パンツ穿き口笛上手キャンプの娘 「春蘭」昭和13年9月号所載
少女等の円陣花野より華麗 『冬濤』所収
ペダル踏んで朝六月の少女たち 『花野』所収
子どもを持つことの叶わなかったきくのにとって、出会った少女すべてが可愛い自分の娘のように映っていたのではないだろうか。
赤尾兜子の句/仲寒蝉
月死にゆく蟾の背暗し父は病む 『蛇』
「学問」の章にある「病父抄」の一連の句である。
兜子は網干という瀬戸内海に臨む漁村で材木問屋を営む家の8人きょうだい(男5人女3人)の二男であった。『昭和俳句文学アルバム赤尾兜子の世界(和田悟朗編著、梅里書房)』によると母とよは龍野から嫁ぎ、兜子が中学の高学年になるにつれて病弱となり、そのことが幼い頃乱暴者であった彼を寡黙で文学好きな青年へと変貌させたという。結局母は兜子が大阪外国語学校に在学中の昭和19年1月27日に亡くなった。後年出版された『稚年記』の前半はこの母に捧げられた俳句群が中心となっている。
一方、父常治の死は昭和22年。すでに戦争は終わり、大阪外国語学校を卒業、出征し帰郷した兜子は京都大学文学部に在籍中であった。俳句の世界ではこの年「太陽系」同人に推され、高柳重信編集の「群」同人となった。兜子にとって父は当然大きな存在であると同時によき理解者でもあったろう。『稚年記』は出征の際遺書として父に託されたのだし、『蛇』の扉裏には「亡き父母に捧ぐ」と書かれている。ただ先の『赤尾兜子の世界』によると京大受験は「父やきょうだいには一切相談することなく」決行したようなので進路に関して父と確執のようなものがあったのかもしれない。
「病父抄」は次の句に始まる。
病む父へ夜がしのびこむ蟾の位置
これを含み「蟾」の句が3句、「蛞蝓」の句が2句続く。父の死を詠むのに蟾や蛞蝓を出してくるのは聊か異様である。さらにその後には先に取り上げた
黒犬の慟哭崖へ鉄鎖のいなびかり
もあり動物のイメージが多く登場する。黒犬は父の死を嘆き悲しむ兜子自身の象徴と判るが蟾や月はどうであろう。掲出句を読み解いてみよう。
まず悩むのが「月死にゆく」で切れるのか、「死にゆく蟾」と続くのかという点である。後者とすると「月」の語のみが浮いてしまい、やはり前者と考える他ない。とすれば「月死にゆく」で切れ、「蟾の背暗し」で切れ、三段切れになってはしまう。しかしそこは「月死にゆく」での切れは軽いもので、そのまま蟾へ繋がってゆくと取ればどうだろう。「月死にゆく」は月が沈んで行くことを指すのか、欠けて行くことを指すのか。欠けて死にゆく月、つまり下弦の月とすれば夜明け近くでなければ拝み得ない。だが沈む月を死にゆく月とは言わないように思う、やはりここは下弦の月を意味するのだろう。1句前の「病む父へ」の句では忍び込んだのは夜とあるが蟾も部屋に忍び込んだものと思われる。即ち蟾は夜の、さらには死の象徴なのだ。掲出句でも蟾の背で月は死にかけている。病んでいる父の命ももう長くはないと作者は悟っている。
それにしても「死にゆく」「暗し」「病む」と暗い言葉をこれでもかと言うように畳みかけ、父の死を演出している。このしつこさは後に前衛俳句の旗手と言われた時代の兜子の俳句に継承されている。
月と言えばこの句以外にも同じ一連に
月くらしずるずるつかむ喉仏
がある。この句の上五は掲出句の上五中七をつづめたような格好だ。中七以降は断末魔の苦しみなのか。だとすれば死にゆく父を余りにも冷徹に見ていることに驚かされる。まだ22歳でしかない若者が最大の後ろ盾を失う瞬間にしては、という意味で。これら2句において月は父の象徴となっている。
齋藤玄の句/飯田冬眞
落鮎をなほ寸断の月明り
昭和48年作。第4句集『狩眼』(*1)所収。
花・鳥・風の句を今まで見てきたが、今回は月。月といえば、秋の月である。「月」の句は、後半生(昭和46年から昭和55年)の三句集で13句を数える(*2)。三句集合計938句中13句は桜の13句と同数である。句集別だと『狩眼』3句、『雁道』8句、『無畔』2句となる。年次別に言うと、昭和48年、49年、50年が各1句、昭和51年、54年が各2句、52年と53年が各3句となる。
そのなかで、月の光に何かが照らされているという構図の句を取り上げてみたい。
落鮎をなほ寸断の月明り 昭和48年作 『狩眼』
産卵を終えて川を下る鮎の姿は、衰弱して哀れである。死にゆく落鮎の魚体を月の光が瞬時、照らしたさまを〈寸断〉ととらえたところに、玄の眼の確かさを感じる。月光の刃でずたずたに断ち切られた鮎は、若鮎ではなく、〈落鮎〉である。だからこそ〈なほ〉の措辞が生まれたのだろう。感傷に陥ることなく、死の峻厳さを〈月明り〉に託したことによって、詩情が生まれているように思う。
あるいは、〈落鮎〉に還暦を翌年に控えた玄自身を重ね合わせて読むならば、〈月明り〉の象徴するものは、時に輝かせ、時に死に至らしめることもある「世評」と解することも可能だが、穿ちすぎだろう。
月光に射しとほさるる薄の身 昭和53年作 『雁道』
やうやくに月を浴(ゆあみ)の冬の鯉 昭和54年作 『無畔』
〈薄の身〉を比喩ととるか、実景と見るかで解釈が分かれそうだ。月光に照らされて輝くすすきの姿を〈射しとほさるる〉と受身で捉えたことで、すすきを取り巻く寂寞とした月夜の景が見えてくる。あるいは、痩せさらばえた病身をすすきに見立てたものか。
〈やうやくに〉は、池の底に潜んでいた〈冬の鯉〉がゆっくりと月下に姿を現した景を詠んだもの。〈月を浴(ゆあみ)〉の中七によって、鯉が自ら月光を浴びに来たと解している点がユニークである。
なお、自死を考えていた頃の連作「死の如し」における「月」の句にも月光とそれに照らされる何か、という構図が散見される。
野分先づ月の光を吹きはじむ 昭和22年作 『玄』
月下また死す恰好になりにけり 昭和22年作 『玄』
月光のはじめて中る茎の石 昭和22年作 『玄』
〈野分〉と〈月の光〉はともに物の存在を通して感知されるものである。非在が非在を対象とした句の存在をこの句によって初めて知った。
〈月下また〉の句は死ぬ時の自身の姿を想像して畳の上でうごめいている作者の姿が滑稽だ。生の延長線上でいくらもがいてみても死を経験することは人に与えられてはいない。
〈茎の石〉は茎漬けの桶の上に置く重石。月光を浴びることで、普段気にも止められなかった存在が、象徴的な何かに変貌してゆく心理を捉えている。この句の場合では漬物石である〈茎の石〉が「死」を象徴する存在として描かれている。
*1 第4句集『狩眼』 昭和50年牧羊社刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載
*2 参考までに後半生の「月」の13句を記しておく。
落鮎をなほ寸断の月明り 昭和48年 『狩眼』
月の出の虫売つねに憂かりけり 昭和49年 『狩眼』
畦焼きの月はあやふくかかりける 昭和50年 『狩眼』
月の出を待つ神妙のありにけり 昭和51年 『雁道』
見おろしに月が光とならむ時 昭和51年 『雁道』
月遠くものみな遠く息一つ 昭和52年 『雁道』
月今宵ありのままなり明日のため 昭和52年 『雁道』
月今宵木槿は木槿出づるなく 昭和52年 『雁道』
在りながら山ゆく月の若牛蒡 昭和53年 『雁道』
月明の箸を逃げたる甘煮藷 昭和53年 『雁道』
月光に射しとほさるる薄の身 昭和53年 『雁道』
やうやくに月を浴(ゆあみ)の冬の鯉 昭和54年 『無畔』
身の置きどころとて真葛原月もなく 昭和54年 『無畔』
青玄系作家の句/岡村知昭
さよなら貴男 月夜のすべり台地底まで 諧弘子
いまここに逢瀬の真っただ中にいるふたりがいる。ふたりが互いに抱きあっている情熱もさることながら、「逢瀬」の真っただ中にいることががもたらす昂ぶりのありようというのは、当事者たるふたり以外にはなかなかにわかりづらいものであろうか。さてここに熱く昂ぶりあった時間が過ぎ去り、別れの時が訪れた二人がいる。この別れが単に「じゃあまた明日、また今度ね」というものであれば、ふたりとも今日の抱擁のぬくもりとともに次なる「逢瀬」への期待を持ち帰ることができる。だがこの一句に登場する女性(としておこう、あなたを「貴男」としてあるだけに)には、いかなる理由かはわからないが、もう次なる「逢瀬」の時は訪れなくなってしまった。「さよなら」も単なる挨拶にとどまらない、真の決別を告げる言葉となってしまった。月の光が満ち溢れたこの空間で、かつて数えきれないほどにささやかれた愛の言葉と彼の全身がもたらしてくれた愛撫は、彼が去っていってしまったこの空間において次第に彼女の体と心に深く突き刺さった棘となってゆく。彼を失った痛みはいよいよ彼女を苦しめ苛む。かつての「逢瀬」のひとときに彼が自分にもたらしてくれた高揚感が、彼女の痛みをさらに増幅させる。彼の姿がいなくなったこの瞬間に、「月夜のすべり台」をただまっすぐに滑り落ちてゆくばかりの彼女の心は、きっとこう思わずにいられないのだろう「奈落の底って、こんな感じかしら」。
掲出句は1965年(昭和40)度の第8回「青玄新人賞」を受賞した30句の中の一句。導入の「さよなら」からの「地底まで」の一連の流れはそれこそ「すべり台」を一気に下りてゆくかのような勢いが感じられ、作品のドラマティックさをより際立たせ、ひとりの女性の悲嘆は一句を通じてひとりの女性の物語へと広がるのだが、受賞30句をまとめてみると、別れのドラマが展開されているのは実のところこの一句のみ。一連30句を彩るのは、次のような愛の希望にあふれたドラマを生きる女性の姿であったりする。
気絶の真似して 梅林でたゞ 夫が好き
春風刈りに 夫も大きいてのひら 下げ
子はこうやって抱くのかと 干し物とり込む夫
わたしが待つから夫が帰る 愚かでない
愛妻俳句ならぬ「愛夫俳句」とでも呼びたくなるこれらの作品を見た目で掲出句を見直してみると、別の意味で作品の落差に驚かされるところもあるのだが、どちらに一句においてのドラマティックさの打ち出し方の強さにおいては共通している部分は多い。「気絶の真似」「春風刈り」は夫とともに過ごす時間がもたらしてくれる昂ぶりをさらに増してくれる大切な手立てともなっているし、「子はこうやって抱くのか」の句では自分の子をいつかこの人が抱いてくれるのだ、との確信が彼女をより昂ぶらせ、夫との関係に対する自信が全身に漲らせるのだ。
掲出句に登場する愛を失った悲嘆の真っただ中にいる女性と、「愛夫俳句」に登場する夫からの愛を信じ、自らも惜しむことなく愛を注ぎ込む女性、どちらもいまこの時においては自らの悲嘆をまっすぐに嘆き、自らへ注がれる愛への参加をまっすぐに唄う。そのドラマティックなまでに堂々とした態度は、辟易してしまった読者をして、「そんな人本当にいるのか」との疑問をもたげさせてしまうこともあるかもしれない(それははじめて読んだ時のわたしのことであるわけで)。しかしもしかしたら、あまりに物語的で典型的であり続けていることこそが、これらの作品群の魅力の源泉でもあるのだから何とも厄介ではないか、と感嘆したくもなるのである。たしかにここに出てくる女性たちとは、私たちはどこかですでに出会っている、もしくはこれから出会うのかもしれないのだから。
上田五千石の句/しなだしん
月の村川のごとくに道ながれ 五千石
第三句集『琥珀』所収(*1)。昭和六十一年作。
このところ、意識的に第三句集『琥珀』の作品を挙げてきた。『琥珀』の秀句を紹介したいとの思いからだ。
五千石の句は第一句集『田園』が斗出して評価が高く、それ以後の『森林』『風景』『琥珀』『天路』は軽視されすぎる傾向があると思っている。たしかに、『森林』『風景』あたりは発展途上の感もあり、『田園』ほどのインパクトがないのも事実。だが第三句集『琥珀』は、「眼前直覚」以降の五千石の充実期であり、練られた表現、詩情豊かで技が光る作品が多く、五千石俳句の最高峰は『田園』よりもこの『琥珀』ではないか、と個人的には思っている。
◆
掲出句。
ふつう「ごとく」を使う場合、全く別次元のものを引き合いに出すのが、比喩の醍醐味であり、飛躍を生む秘訣だと思う。「貫く棒のごとく」のごとく。
だが、この句では「道」を「川」に例えている。どちらもごく自然に、身近に存在するもので、言うなればかなり近いものと言える。大いなる水の流れ、つまり川、その近くに人が集まり、生活が形成され、道ができる。川沿いには必ずといっていいほど道がある。この意味でも「道」と「川」は関係性が強い。比喩としての飛躍に乏しいように思うのだが、一句として仕立てられたとき、違和感なくすっと入ってくるから不思議である。これが先に述べた、さり気ないが、地に足のついた技とも言えようか。
◆
この句に前書はないため、どこの景色なのか、本当に存在する村なのか、それは分からない。だが、この道は車のヘッドライトが行き来するような道路ではなく、山間のひっそりとした村、鄙びた屋並みを通る村の道が想像できる。世界遺産にも登録された白川郷などを思ったりもする。
◆
「月の村」と上五に置くことで、まず大づかみの把握を読者に促し、「川のごとくに道ながれ」で、景色としての村の在りよう、道の存在を提示する。高台から村を見おろしているような浮遊感を感じるのは、「月の村」という上五の効果であり、「川のごとくに」「道ながれ」によって月の光りに浮かぶ幻想的な村の道を静かに喚起する。
「川」や「道」「村」という何気ない現実的な言葉を使いながら、この句の景色がどこか現実離れしているように感じるのもまた、「月の村」という言葉の不思議さから。
*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日、角川書店刊
(戦後俳句史を読む)「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会⑨
筑紫は特に開業医俳句について誰も遷子の先人となる人はおらず〈遷子は自らの良心に基づいて開業医俳句を開拓した〉と述べる。一方で〈遷子の句業を引き継いだ人もいなかったのではないか。35年後の今、わずかに5人の作家たちだけが自らの良心に基づいて遷子を発見したのかもしれない〉と言う。
原、中西は無回答。
深谷は晩年の角川源義とのやり取りからも分るように〈どちらかと言えば、自己に対する俳壇での評価など気にも留めず、俳壇とは距離を置いていた〉と述べる。逆に〈俳壇への影響もあまり大きなものとは言えず、今日まで余り鑑みられることがなかった〉と言う。
仲は影響を受けた作家として水原秋桜子と石田波郷を挙げる。波郷については年下ながら尊敬の対象だったようだが俳句の上での影響は強くないと言いつつ〈境涯俳句を詠むという行き方は波郷から学んだのかもしれない〉と述べる。また〈『惜命』と遷子の闘病俳句との関係については今後の比較研究が必要だ〉と考える。
飯田龍太について〈遷子に対する評価が意外に低いのには驚いた、同じように中央俳壇を遠く離れて自然の中の暮らしを詠む者同士もっと共感するところがあってもよいのではないかと思った、遷子の方は龍太に親しみを感じていた〉とコメントする。
最後に遷子の俳句は同時代の人々に評価されなかったと締め括る。
回答者に共通していたのは遷子の前に遷子なく、遷子の後に遷子なしということ。理解者と言う意味でも同時代の、馬酔木の人達にすらあまり理解されていなかった。筑紫の言うように当時見過ごしてきたものが現代だからこそ見えてくるようになったのかもしれない。