うきはしをわたる風景 小津夜景
これからのひととき
景色の遠のくにしたがい、
私は記憶から忘却の方へと
静かに存在の項を移しつつ、
非人称の影となって
あなたの隣に横たわるだろう。
あなたは私を運んでいるのだし
きっと前を見つづけるとおもう
それでもときおり飼い猫にする
仕方で私を撫でさすろうとして
その片手がさまよいながら私の
脇腹をさがしにくるのがわかる。
あなたの手はあたたかく湿り
エンジンにゆさぶられる私に
どんな幸福な夢を見せたとしてもおかしくはなく、
ならばこれまで見た風景もまた同じくらい単純な
子供だましのしかけの夢だったのかもしれなくて、
そんな夢の風景が
宵闇にひとつずつ失われてゆくさまを
私は今(今とはいつのことだろう)
ぼんやりと感じている。
だが仮にそれらが失われても
あなたその人だけは幻でなく、
どこまでも開かれた実在の空間として
すべての風景を住まわせているのだと
私はまだ信じていて
私はかすかに安心し、
やっと眠りは深まり、
そうして、いつしか、
気がつくと私は果てしない大地を離れ、
車輪のかまびすしい寝台車に移り乗り、
冷ややかな夜のリノリウムを旅しているのだった。
……( une jetée flottante )
はなびらに吹かれて貌となる日かな
ほころびて馬酔木を垂らす首のあり
ためらひの母音よ東風の腕いづこ
かぎろひに来よやとばかり眼湧く
たましひにばねある刑やあたたかし
てぶくろにおぼつかなくも棲む指か
まなぶたは綴ぢて硝子のばくてりあ
麦よりも離ればなれのあばらかな
まばゆさにひび入る旅の廃墟なり
きりかぶの森ぶりかへすその無人
囀りやまぼろばといふてろりずむ
あばらやがのつぺらばうと戯れてゐる
横笛はしやぼんの玉を吐き出して
あまつさへ翳す真昼のさくらばな
空耳にそれはあらぬとつばくらめ
恋びとのなたねあぶらを絞りけり
かの日々に棲むばらいろの分身が
万物のあぶくどの無に湧かんとす
ぼろぼろの花びらその墓碑も未完
生くるべしすべからくあの忘却を
扉からくちびるまでの朧かな
めびうすの廊下を走る我と影
まれびとを招く尾びれに火をともし
ぬばたまを飛ばざるものとして愛す
あけぼのに小鳩まばたく火星かな
ほのぼのとひとりぼつちの脇腹よ
流れ星ほろびうすべにいろの野辺
飛ぶ手見ゆやぶられしわが天蓋に
おばけみな羅衣なびかせて手ぶらかな
煙草火にもゆるはなびらばかりなり
日々といふかーさ・びあんか白い墓
まぼろしを包むぼろきれありにけり
……( une jetée flottante )
某月某日。
庭に降りる。
風。
馬酔木が花弁をおののかせている。
花の列が火影のように煽られ崩れてゆく。
わたしは花陰にねそべった。
手にしているこの文章をふたたび読んだ。
本を閉じ、土を嗅ぎ、目の前の馬酔木に指を入れた。
花が、けざやかに裂けた。
ぞっと、そのあざやぎに震えた。
指を葬られて。
……( une jetée flottante )
わたぼこりこんな時間に旅立つか