大江麻衣『にせもの』ほか
2012年8月8日
「文學界」8月号のエセー欄で、荻原魚雷が、及川均の紹介をしている。
2012年8月11日
大江麻衣『にせもの――鹿は人がいないところには行かない』(紫陽社、2012・8・25)について。サブタイトルがいいね。端的にあらわれている。『にせもの』だけだと、いかにも詩集のタイトルで、決まりすぎている。というのを台なしにするために、気どりのない、ベタでもない、よくわからないけど、かっこよくない、とてもいいことばの選択だと思う。
この詩集にはやられた。以前「新潮」(2010年7月号)に載った、小詩集「昭和以降に恋愛はない」のときは、そこまでおもしろく思わなかったのだが。
まず、ことばの出し方が、わりと雑だ。こんなこと書いてしまうのかというくらいな、「練る」前のことばが多く用いられている。そしてその雑であるがゆえに、というか、ことばが、「効果的」に使われていない。それで、単純に、文章能力のなさから(?)、普通にわかりづらくなっている。ようにみえる。それらの「雑」さかげんが、どんどん、こっちの思っているようなことをかきまわしてくれたんですね。
詩を書くでも文章を書くでも何でもいいが、ともかくむずかしいと思うのは、「この時点でとめておく」というようなこと、「これでいいや」と思うその地点の持ちかたなのだ。なんだかんだいってももうみんな(詩に関係ない人もみんな)年だし、それまでにこしらえてきた美意識の地点で、生理的なよしあしを決めて書いてしまうし、書かざるをえない。それは、実は動かしていけるようなものと思えるのだが、実際は、それまでにできあがってしまった自分の美意識の地点に安住することが楽で気持ちいいので、ほとんどの人は、その地点を保持しつづけたまま書く。だから、何を書いても同じようなものになる。
大江麻衣のこの詩集を読んで思うのは、大江のその「地点」は、とてもゆるく「雑」にかまえられているということだ。だから、ほんとうに意外なことばが次々にほうりこまれてくる。
いちばん最初の詩「うつし絵」の最初、
東京タワーの周りには墓が多い!
これだけでも、驚いてしまったのだけど。すごくがんばって「東京タワーの周りには墓が多い」までは書けたとしても「!」はつけられないだろう。
それに、(詩集全体に)とてもエッチだ。「自分がどれだけ官能的な感覚のこまやかさを持っているかを強く打ち出している」地点で書かれている詩には、絶対に書けない、誘いがある。
2012年8月13日
大江麻衣の散文詩を読んでいると、やっぱり「行わけが、もったいぶったことばづかいの理由になっている」のではないかと気づかされる。ほんとうは、行わけを、飛躍や文法の外しとか何でもいいが、そういうことのいいわけにつかってはいけないのかもしれない。ベタにつづけて書いてしまえばいいのだ。それでベタに(散文で)書いて、恥ずかしくないか、それでも面白いか、点検すればいいのである。
2012年8月17日
大江麻衣の詩集。つい、「ほかの詩とくらべて○○ではない」という連想をしてしまう。「○○ではない」ということばでまずいえる、風通しのよさがあることはたしかだが、その先のこともいってみたい。
出だしがどの詩も新鮮だ。適当にはじまっている。それでたぶん、途中まで書いて「失敗した」とか思ってもそのまま書きつづけているのではないか? と一応はいってみる。いってみたあとで、とりあえず「詩人を抱く」という作品をみてみると。
「詩人を抱く」は、「男」や既成の「詩」や「詩人」に対する怒りとエロスが入りまじった作品。
「男が詩を書けば性的不能。」という出だし。こうしたいいかたの、何が特徴なのか。まず、語調をととのえるためのことばが入っていない。たとえばであるが、「男が詩を書けばいつも性的不能。」というように勝手に補ってしまったが、だいたいこのように、ふつうにものを書こうとすれば、すわりのいいことばにするための、語調に引っぱられて、書かなくてもいいことまでさしはさんでしまい、ことばが一般的ななじみかたのほうへ落ちつく、ということがよく起こる。この出だしの部分だけではなく、大江のいいかたの一つの特徴は、語調を整えることを避けることで、ことばから気づかいを抜きさるところにある。
といういいかただけでは、ほんの少ししかあっていない。大江に使われるまでは、もう少しおとなしくしていたかった、といってみたらどうか。
ときに、この語調無視のかきかたは、意味の通りを悪くするが、その意味の通りにくいことばを読んでいるときの、読者としてのぼくの、意味をとろうとして働かせている意識と、まあいいではないかという適当に読もうとする意識のなかで感じている、「読みにくさ」は、たとえば、積極的に文法を逸脱したりするタイプの詩に比べて、ある「踏みとどまりかた」をしているように感じる。重ねていってしまえば、その「地点」なのだ。
子どものとき父にお菓子を投げつけられてねじこまれた、鼻の穴につまって苦しかったし顔に潰れて気持ち悪かった、いまごろ「食べものは大事にしろ」と怒る人で笑かします、父が死にかけの頃同じように食べものねじこんでやるのであなたはそばでそれを見守っていてください、見るものがないんだから詩に書いてもいいですよ。(「詩人を抱く」部分)
「子どものとき父にお菓子を投げつけられてねじこまれた」ここまで一気にいって、読点でつなぐ。次の箇所では、「顔に潰れて気持ち悪かった」の、「顔に」という語がなにか異様に思えた。わざわざいわれたがために意識させられた異様さだろうか。それもあるかもしれないが、その前に「鼻の穴」とあるのに対して、「顔」というのは、「鼻の穴」も「顔」の一部であることだし、たとえば「頬」などだったら普通に読みとばせる気がするが、変に抽象度が高まったというか場所が特定できない気がしてしまうんです。それでつづけて「いまごろ「食べものは大事にしろ」と怒る人で笑かします」とつながる。この人が父であることはわかるのだが、ここで主語が変わってしまっているわけです。明示されずに変わる。そう書きたくなることはよくあることだと思いますが、この場合は、悪意みたいなものかなそういうのの表明にあたる箇所なので、この切り替わりで、明示されない主語っていうのが、もう(父じゃなくて)語り手のことでもいいってぐらいの引き裂かれた感情を感じてしまうんです。
そうなってくると、次に出てくる「あなた」っていうのが誰なのか。誰なのかっていうのは、実はなくて、筋立てのもんだいじゃない。それまでの筋立てや設定から導き出せなくてもいい、読者である「あなた」なんだと思う人もいるかもしれませんし、どう思ってもいい気もしますが、ぼくは、ただ「あなた」が急に出てきたと感じました。それは、それまでに展開していた、語り手と父の話(それはすでに前文でねじれはじめているが)を、何かもう「違うこと」にしてしまうものです。語り手と父の話の「中」に「あなた」が突然登場したのではなくて、語り手と「あなた」の世界に話が変わってしまった。ここまでくると「見るものがないんだから詩に書いてもいいですよ」という誰にいっているのだか何をいっているんだか特定したくないことばが、「効いてくる」。
「見るものがない」のだ。いわれてしまって、はじめて気づく状況。いま、ききては、「見るものがない」状況におとしこまれた。そして、「だから」「詩に書いてもいいですよ」という。「な、なんで詩なんだよ」というだろうか、「書けって何を。」というだろうか、わからぬが、いずれにしろ、ぼくだったら、「ひるむ」。
つけたしのメモ。
「わたしは、空襲で死にました。飛行機の音が怖い。(中略)ヒロシマかナガサキで死にました。そのように伝えても駄目で、大袈裟とみんないう。輪廻転生は都合のいいファンタジー。(略)」(「雷恐怖症」)
しれっと、抜きうちでいう。いとも簡単にいわれているという感じ。「ヒロシマかナガサキ」それくらいの適当さで。飽きのこない展開をみせて、「ファンタジー」などと、そんなに軽くしてしまっていいのかと思われるほどのことばまでとび出す。これは、語られていることがらを軽くしたり、かわしたりする身ぶりじゃない。空襲について、ヒロシマ・ナガサキについて、○○について、誰でも、こんなふうに語ってよかったのだ、と思わせる、ことばづかいなのだ。たとえば少女が、ヒロシマかナガサキで死んだ人になって何の負荷もなく語る、ということができるのである。
2012年8月24日
高田渡の詩集『個人的理由』が文遊社から復刊された。有馬敲の解説によると、この文遊社版では、私家版収録作全作品、に加えて、ブロンズ社版のみに収録された作品、さらには単行本未収録作も加えられているとのこと。現在、ブロンズ社版ですら古書価格が高額になっており、これは非常にうれしい復刊だ。
2012年9月12日
「鹿は人がいないところには行かない」というのは、副題ではないそうです。