自由詩時評 第83回 金子鉄夫

こんにちはって、こんにちは金子鉄夫です。今回の時評がサイトに公開されるころは師走も師走、皆さん色々と今年あった出来事を思い返したりもするんでしょうが、今年は僕は例年にないくらい貧窮、極まりクビの皮いちまいでつながって日々、喘いでいる散々な辰年でしたが、皆さんはどうでしたか?ってあまり興味もありませんが来年、十三年はどうなることやら、もしかしたら僕なんて、そこらへんのドブで野垂れ死にってこともありえなくはないですが、十三年も皆さんにとって良い年になることを願ってます、だなんて嘘をついてもしょうがないしグダグダ、グダまいててもしょうがないので今回も、より一層やぶれかぶれで「自由詩の時評」ってヤツをはじめたいとおもいます。 
 
 
 
 ちょうど去年の今ぐらい某詩誌の座談会に参加したのだが、その座談会と一緒に掲載されるアンケートの質問に「これからの十年代の詩はどうなるとおもいますか?」というえらくザックリとした質問があって、知るかよとおもいながら「個人、個人が積極的に自分勝手に書いていったらよいとおもいます」と投げやりに書いて返答したのだが、いざしかし、今年、刊行されたバラエティに富んだ様々な詩集に目を沿わしてみれば、この投げやりな返答も満更ではない様相を現代詩は帯びてきたのではないだろうか。特に今回の刊行が第一詩集、もしくは第二詩集の詩人の詩集を、いくつか挙げただけでも決して画一に統合されえない「自分勝手」な力能を駆使しながら「積極的」に固有のフィールドを創造する新しい詩の潜勢が現勢しつつあるのではないだろうか。十年代は焼香臭い湿っぽい現代詩を横目に血も汗も涙も糞も小便も、その他もろもろをぶちまけて「自分勝手」な詩人たちが分裂しては共生し「もう一つの現代詩」を企むべきである・・・とここで一つぶっ飛んだ逸話を挿入してしまおう。かつて固有のフィールドを創造した詩人の逸話を。名はゲラシム・ルカ(一九十三ー一九九四)。ここでこの偉大な詩人について省いている紙幅はないので詳しくは「シュルレアリスム二十五時」シリーズ、鈴木雅雄著「ゲラシム・ルカ」(水声社)を読んでいただくとして、ゲラシム・ルカのぶっ飛んだ逸話をひとつ小耳に挟んでいただきたい。とある詩を書く青年が当時、ルーマニア・シュルレアリスムの主導者でブイブイいわせていたゲラシム・ルカに自分の作品を読んでもらおうと尋ねたところ、ゲラシム・ルカはピストルを片手に携えて対応し、こう言い放った。 
「おまえの作品を読んでやってもいいが、おまえが「本物」の詩人でなければ、このピストルで撃ち殺す」 
と詩を書く青年が撃ち殺されたかどうかはいざ知らず、狂ったパッションを全身で体現したゲラシム・ルカらしいぶっ飛んだ逸話であるが、ここでゲラシム・ルカに引き金を引かさないために今年、刊行された詩人たちの詩集の何冊かを差し出してみるということを想像してみてはどうだろう。たとえば作品に託けていってしまえばムカデの如く右往左往にうじゃうじゃする言語態で悪ノリはなはだしく読者をへルタースケルターな笑劇と衝撃的に「直結」する疋田龍之介の「歯車vs丙牛」。「ぎばさっと脇腹突かれて/つい直結。/以来というもの虹の端々からジュリエッタ・マシーナが相次いで飛び出してくる。/思う存分に道で死んで、死ぬほど夜に笑ったジュリエッタ、彼女のたしかに愛くるしい顔面の裏側には、よく見るとほら、耳たぶのキーホルダーが内臓されていて、いや、直結されていて。そう、直結。直結。素敵な直結。屋根の下も覆い始める虹。そこも少しずれると段差があるか!/するよ、直結。」(「直結の虹」より抜粋)ラリッたようにアッパーにスピードを加速させながら行を重ねてカオス化させてゆくが読者に健康的な純度の高い「抒情」を提供する疋田龍之介のこの詩集と一緒に、その「抒情」のクビを締めながら耽美的言語が発狂する怪物的ゾーンに読者をひきずり込み最後はスプラッターな言語のトラウマを刻み付ける榎本櫻湖の「増殖する眼球にまたがって」を差し出してみてはどうだろう。「椅子の尊厳死を守らなければ、天候に翳された薬剤師のマネキンに交接する猶予もなく、兆した卵管から尿道を通って前立腺へ、花火、砂漠に咲く月の瞑想、夏の虐殺を多いに頒布し搾取を常套句として仮面を叩き壊す、マントは蜘蛛の巣状に縫いつけられたイミテーションのルビーが鮮やか、神妙な面持ちで闘牛を浄化する作用から逃げられない馬又者の懐刀、猥褻な腰巻きは珈琲豆を局部に隠し持っている、拳銃よりもスコーン、午後は花占いのさもしい乞食、穏和な針は天然ガス輸送管の内壁を突くツグミの模型、」(「不思議の国にバディマン、チチマン」より抜粋)もしくは望月遊馬の「焼け跡」は。疋田龍之介、榎本櫻湖と挙げた二人は同じ時期に「現代詩手帖」の投稿欄で競合しただけあって密度の濃い語彙の攻勢の書法に、共通項が幾分か共通項が見出せもする。が望月遊馬の「焼け跡」の、前の二人が、その書法において言語態然とした身振りを示すのに対して、まぎれもない言語で記されながらも、言語を脱衣し記される客体そのものを着衣するかのような幻惑にとらわれる作品たち(チグハグな言い方になって申し訳ないですが、ずっとこの詩集を手にしてからうまい言い方を探している最中です)は、ヒトとモノの境界を行きつつ戻りつつサイケデリックな様態へと生成変化する、陳腐な言葉であらわせば「天才」ならではのフットワークで、めくるめくプロセスを展開する。「「いっそのこと、からだの暴挙として全身でその衝撃を感じるなら、わたしの背は張りつめて、本の表紙がめくられる。(レンズ)惹きあっていた田舎音楽は地平にまで鳴りひびいていた。「夢のなかで、わたしは部屋にカール・ルイスがいたと思う。思慮深い眼をむけられて、わたしはふるえあがっていた。男も女もたくましい足の筋肉で土を蹴って、走りぬけた。そしてどこかに消えた。閉じた眼のなかでもジープが精力的に北へとぬけていく轟音がいつまでも鳴りひびいていたのだった。」なにかの部分が砕けてしまった、/たしかに望遠レンズのような生活だった。「コップの水に苺をうかべて、それがまるで、巨人のように」手をひろげている。その光景には憂鬱にさせるなにかがあった」手紙がすべて燃やされてしまう。ガソリンスタンドは火事になる。」(「地球儀のように行きだおれたい」より抜粋)疋田龍之介、榎本櫻湖、望月遊馬、いずれも今年、詩集を刊行した詩人たちだが各氏の作品にみられるように現代詩のパースぺクティブを「積極的」に解体しツバ吐くような「自分勝手」さを駆使して「十年代の詩」というものがあるのであれば、このように書かれるべきである・・・さて果たしてゲラシム・ルカは、この三冊を差し出されてもピストルの引き金を引くのだろうか。答えも想像の枠から出ないが反対に自らに銃口を向けるのではないかと僕は像像する。この三冊以外、今年、詩集を刊行した新しい詩人、(白鳥央堂、ブリングル)または、まだ詩集を刊行してない詩人(依田冬派、浪玲遥明、鈴木一平)などなど、どの詩人に置き換えても答えは同じだ・・・とこのようなくだらない想像を逞しくするほど十二年は「十年代の詩」を形作る詩人、詩集に恵まれた年であった。 
 
現代詩の不景気が嘆かれ続けて久しいが、元来、現代詩を書くという行為は資本に抗う試みである。だからこそ前記した「本物」の詩人たちが「自分勝手」に乱れ飛ぶ分子のように錯綜する様が、カネに還元されない「勝手にしやがれ」加減が、不穏でいて楽しくもある現代詩である。そして、その「自分勝手」に乱れ飛んで「勝手にしやがれ」と言い放つ姿勢は、いつだってクールだ。現代詩を書くという行為はジミヘンがパープル・ヘイズのリフを弾くのと等価でクールである。何度だっていってもいい今も昔も、詩人であることは最高にクールだ。その気概をもって、またやってくる年を祝祭しよう。 
 
 とまぁ金子の時評は、数えるとこ今回が記念すべき十回目で、グダグダとくだらないことを書き連ねてきましたが(挙げた詩人たちをエラそうに書ける身分でもないんですが)、まぁご愛嬌ということで。来年も、もし何かあったらその時は宜しくお願いします。後、誹謗、中傷があれば年内に対処したいので僕のツイッターに掲載されているメール・アドレスまでお願いします。それでは詩を愛する皆さんに愛を込めて。 

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