自由詩時評 第80回 森川雅美

声の風景

 さて、前回の続きであるが、まずより正確な言葉でいうようにしたい。前回、「物語」という言葉を使ったが、それはあくまで一人の作者によって創作されたものであって、それ以前の多くに語り継がれ変容していく、語る「物語」とは違う。後者は、一人の作者に限定されない、様ざまな声をはらみこむ。和歌や俳句、漢詩とともに、日本の自由詩の大きな源流といえる。いま自由詩を考える時に、そのような「語り」の声を考えないわけにはいかない。一人の作者によるのではない、ひとつの時代の声としてあること。そのような自由詩は可能なのか。
 それほど詩歴の長くない、新人といえる詩人の詩集から考えてみたい。

 石田瑞穂『まどろみの島』(思潮社)は一読では古風と思える詩集だ。
「あとがき」にもあるように、従妹に対する鎮魂歌であり、亡き人を想うというひとつの方向に収束している。東京が舞台の最初の数編を除けば、旅先で死者に問いかけるという、オーソドックスな体裁をとっているので、古風に思える部分があるのは仕方がない。アイルランドの孤島の風景に詩は展開する。「プロペラが背後に白い航路を曳き(「スカイ島」)」や、「夏の防波堤で音もなく(「フィナフォード波止場」)」、など現実の風景や思考から始まっている。亡き人を思うという普遍的な意識を、現在の風景や思考の中に捉えることにより、今の声としてある。

枝にコオロギの速贄(ルビ はやにえ)がかかっています
すると私は霧の峰のうえから
こちらをじっと凝視しているだろう
瞳の針先を首筋に意識してしまう
どこからか 小さな
死を透けて聴こえてくる 冬の音楽を

(「サンドウィック港」)

 言葉は現在あるものを見つめる目に徹している。そして、そのような現実を通して、風景の奥底に潜む異界へとつながっている。現在を見つめそれを言葉にする必要が、いかに切実であるかに、詩のリアルはかかっている。「物語」を創るのではなく、いままさに語る必要がある言葉なのだ。現実の風景を正確に捉え、その奥の異界を見る。さらに、俯瞰的な視点から、抽象的な思考へと、言葉は動いている。引用部分はそのような言葉の動きを、見えやすく表している。そして、そのような言葉の動きゆえに、詩は私を越えた様ざまな声の意識を引き入れ、ただ個人的な鎮魂ではなく、より普遍に近づく悼みの意識として現れる。詩集の末尾の「失われた日々よ もうおやすみ」という1行は、死者との決別と次の一歩を切実な痛みとして伝える。

 華原倫子『樹齢』(思潮社)もまた、不思議な奥行きのある詩集だ。
 後半の短歌が弱く、さらにその前の自由詩とのつながりもいま一つ明確でなく、詩集としてはやや残念に思えるが、今回はその点には触れない。
 詩集の魅力は、日常に潜む異界に徐々に踏み込んでいくのではなく、突然足を踏み入れるような感覚だ。それが不自然でなく伝わるのは、どのような言葉の動きによるのだろうか。まず書き出しは、「死んで戻ってきた人間は/どこかに嫌なゆがみがあって(「戻ってきた死者」)」や、「蝉が来て/あああ、と言いながら被っていた笠を脱ぐ(「空蝉」)など、「物語」を思わせる。しかし、言葉は「物語」のように意味の収束には向かわない。「弟をぶって/すぐに台所の窓から外をのぞいた」という言葉から始まる、詩から引用する。「死んだ人の口が内側から光っている」という1行から、言葉は大きく横道にずれ、以下のように終わる。

一度引っぱり出したらきりがないから
どこまでも煎餅のように平らな
死んだ人の口から内側を覗く
まっさかさまに
黒い線が目のなかを横切っていく

(「蘇生」)

 紙面の関係で全文の引用できないが、蛇行する迷路のような、どこにたどり着くかも分からない言葉の動きだ。「物語」脈に収まることなく、多方向に拡散することで、一人の「語り」にならず、様ざまな声が動き出す。切実な言葉だけで構成された短い詩で成り立つ、『まどろみの島』とは全く構造が違い、むしろ言葉の流れこそが、詩を成り立たせている。書き出しから結びまでの間には、いくつもの起伏があり、読み進むと全く違う場所に連れて行かれた気がする。何度か繰り返される、「死んだ人の口」が、異界への裂け目としてある。「物語」の展開ではなく、言葉の動きそのものが、読み手をそのような方向に持っていくので、より実感として伝わる。

 このような言葉の動きを、よりしゃべり言葉にして、さらに多様な「語り」を引き入れることで、声そのものを大胆に展開したのが、ブリングル『、そうして迷子になりました』(思潮社)だ。まず、目につくのは奇妙な題名だ。そして、あまり詩集では見かけない判型と、大きな活字。詩集というより童話、あるいは童話詩を思わせる。確かに、全体的にひらがなのイメージが強い。ページを開いても、「すここんと青空です(「「おうちレストラン」」)」や、「ぷすんぷすんと軽石みたいに酸素を孕んで(「いつだってどこかでおこっている」)」や、「あれはいかいかと滅する光だったのだろうか(「めうしとこっぷと王冠」)」など、メルヘンチックなものが目立つ。しかし、詩集はメルヘンを装いながら現実を描こうとしていて、もうここで読み手は作品の世界に取り込まれている。

踏み外すのが怖くて指はいつも定位置 
おりこうさん 
「わたし」なんてないんだよ 
初めて会った人のように振る舞うとか 
冷蔵庫の中身と相談しながら食事を作ること 
そんなことを考えて 
口に残る繊維質そして匂い

(「自転しながらめざめるからだ」)

 詩集の最後の詩から引用した。この引用部分には詩集の特徴が典型的に表れている。口調も統一されてなく、様ざまな声が交差していて、読んでいて楽しくなる。ともかく言葉の反射神経がいい。言葉遣いが軽いので、一読では感覚が勝っているように思えるが、言葉は実に鮮やかに感覚と思考を行き来している。説明するまでもなく、引用部分を読めばすぐに分かる。現在の様ざまな声を集めることによって、現在の風景が現れてくる。目立つように思える、メルヘン調の語りもその一要素に過ぎない。私性や故意に創られた「物語」を越えて、浮びあがってくるのは現在の声だ。もちろん、詩は作品なので作為が入っており、声そのものになることはできない。だが、言葉は現在の声になろうと動いている。それが重要だ。声が現在の風景に動いていくなら、確実に言葉は現在の問題を孕むはずだ。

 セカイに散らばる歓声に振り回され、戯れに濡れたグラスについ
た水滴のよう、自分が迷子であることもいっさいがっさい見失った
まま先へ先へ、つんのめってつまずきながら足は、進む、歩き、続
け、外反母趾という国家的お家芸に経済を繁栄させてゆくのであり
ました

(「すすめ、人生あたっかー」)

 「セカイ」など軽い言葉で書いているが、根底には現実を見つめる確かな眼がある。軽いのはむしろ、自らを戯画化し他者として投げ出す言葉の動きだろう。がむしゃらに前に進む言葉の動きが、痛々しく表面には現れない傷口すら感じさせる。言葉は多くの他者の声を引き入れながら、正確に私の生活のリズムを刻んでいる。さらに、リズムだけ残して、私は他者へ他者へと向かっているため、言葉の思考の甘えがない。「外反母趾という国家的お家芸に経済を繁栄させてゆくのでありました」という表現は、実に的確である。そして、それらの言葉は、先に引用した最後の詩の、「宣告を受けた日だまりと葬列/どちらも眠るときには同じ優しさ(「自転しながらめざめるからだ」)」という、結びにたどり着く。現在を生きる一人の詩人の感受と思考が、見事に言葉の風景に結実した1冊だ。

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