自由詩時評 第79回 小峰慎也

ある感触から

2012年10月5日

最果タヒ『空が分裂する』(講談社、2012年10月9日)と佐内正史『人に聞いた』(ナナロク社、2012年10月10日)を買いました。

佐内正史のはじめての詩集は、1篇1篇にタイトルがない、右ページからはじまってすきなところで終わる。このせっつかれたような、不完全な感じ。行の運び、あんまりよけいなことはいわない、行と行の間にあんまり関係がなくても、置いていく、メモのような感じで。

10月14日

Webマガジンの「midnight press WEB」vol.3(2012 october)で新しくはじまった連載匿名コラム「そよ風」を読んだ。非常にいいですね。なにより「話題」がある。この長さや密度で、各紙誌にもほしいところ。ひどい匿名コラムになると、いってもいわなくても同じことを書いているか、やたら気炎を上げているか、いずれにしろ、行きつくところには「みんなが賛同してくれるであろう感情」が待っているだけだし。今回のように、きちんと芯があって、波風もおこるものをこれからもたのしみにしています。

10月30日

望月遊馬『焼け跡』は気になる詩集だった。

「ポルカ」は何を書いているか。一行目、「(おへそをだして、る)」というのは、わりと宙に浮いている感じで出てきている。健康的なエッチを感じさせながら、それとはまったく無関係な無邪気さも感じさせる。どういう方向に行くのかわからないいいことばだ。

この詩集のことばづかいの一つの特長として、ことばを意味させすぎない、ということがある。意味しすぎないように感度をはたらかせながら、まるで意外なところへつなげていく。しかし、それは勝手すぎない。つねに、前に出してきたことばを「大切にする」意識があるかのようだ。

望月がとらえている生活の感度、その目線が新鮮ということがまずある。「(おへそをだして、る)」というところから入ることはかなりむずかしい。そしてへんに明るい。

自然におさえられている生活の感度があって、それが殺されることなく、不自然な場所にも、どんな場所にも通路を引いていく。その「感じ」が新鮮なのだ。

11月3日

いや。うまくはいえないのだ。

理由のわからないことばの入りかた、「近づいてきた(メロン)ちいさな声とうすい息のことで、判断力を失っているから、造形としては明るい浜に寝そべっていた。」(P11)、連と連の間隔の不規則性、文字の大きさの違い、どっかから出てきたかっこ、そうした、理由のわからないものの出かたが、いい。その「頻度」がいいのだ。

11月4日

『焼け跡』。

装幀がいい。近年、思潮社の詩集で、著者自装や著者の知人にたのんでいるのかと思われる装幀にいいものが多い気がする。装幀にくわしくないのでわからないのだけど、どこまでを装幀者が受け持ち、どこまでを思潮社のほうでやっているのかが気になる。たとえば、とてもいい絵とか、コンピュータ画面ではすばらしいデザインだったとしても、紙とか造本の段階で「失敗」している本をよく見かけるからだ。

それにしても、うまくいうことができない(いつものことではあるが)。

「家具の音楽」。タイトルもいい。やっぱり、何を持ってきて、どうくみあわせれば、意味が浮いてくれて、ただ気持ちのなかに、位置を示すだけのものになるか、つねに探っているのだ。この詩(にかぎらないが)は、位置のことばの宝庫である。

そして、この、位置のことばには、ユーモアがともなう。脈絡のなかで登場する、位置のことばは、つながりからわずかに落下、もしくは浮遊した感じをあたえる。あらわれた意味しすぎないものには、「なんだよ、それ!」とでもいいたくなるのだ。心の反応である。「牛が、いる。」、「牛は耳をまわしている。」、「そうでなければ、牛の埋まっていたあたりの土だけが、どうして温かいのか。」、「ときどき、牛は耳をねじった。」、「役所で、白い紙をわたされて、そこには、牛のプリクラがはってあった。」、「牛がきれいすぎる。」、「ほんとうは牛が家具になっているのではないかと、ふれて確かめたくなる。」。こうして部分だけを取り出しても、脈絡の上のことなので伝わりづらいが。

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