文字という約束事
人は他人と共に生きようとすれば、相手の存在に遠慮しなければならない。これは当然のことなのだが、困ったことに、人は大変にわがままなので、お互いに約束ごとを決めておかないと、そのことに気づけないようなのだ。
そのために、人は制度とか規則とかいった約束事を作り、集団生活を円滑におこなおうとする。裏返せば、人は、約束ごとをしておかなければ他人と共存することが大変に困難であるような存在なのだろう。
約束ごとは、国家が定めた刑罰をはじめとする様々な法律からはじまり、生活に密着した校則や町内会の決まりごとにいたるまで、無数にある。私たちの生活は約束ごとに監視されている。
(なかには理念までも約束しようとする場合もある。国連憲章とか、ヒポクラテスの医の倫理とか。でも、理念は言われてみて初めて気づくこともあるので、事情は少し異なるかもしれない。)
会社の仕事を始める時間も決められているし、提出する書類の書き方も決められている。自由な時間に仕事を始めるわけにはいかないし、書式を無視することも出来ない。
このように、これらの約束ごとの基本となるのは禁止あるいは罰則である。社会生活をおこなうからには自由は否応なくたいへんに束縛される。
岡田ユアンの詩集「トットリッチ」(土曜美術社出版販売)を読みながら、そんな約束ごとにがんじがらめになっている自分を感じていた。岡田の作品が、そんな約束ごとを振りはらった地点に立つことを希求しているように感じられたからだ。
私に大根の話などしないで。一日のうちに大根について思いめぐらすことな
んて皆無です。大根の値段から東証の動きを察知しているなんて冗談もすっ
かり板についてきて、私は未だに乳臭さを前にして深呼吸が出来ないでいる。
気づいていましたか。気づいていながら私の想像のおよばない大根の話を楽
しそうに話してみせるのね。私はただ表情筋を鍛えるように筋繊維にわずか
な電気信号を送るのです。(「大根の話をしないで」より)
どの作品にあらわれる”わたし”も“私”も、ひとりぼっちである。描かれる世界には、他には誰もいない。他人との約束事を捨てたときに、ひとりで存在することを覚悟して選び取ったのだろう。
仕事を終えた雨粒は
大地にもぐり込んでいった
早く帰りたいのだろう
せっかちだ
まあ 私も同じか
それなら
なぜ言葉をつくったのさ
壁画みたいなダンスを踊れば
すんだ話じゃないか
とうそぶ嘯いて 思いなおした(「ことづけ」より)
散文詩形で書かれた「砂漠の信号」には、F・カフカの世界を思わせる面白さがある。
砂漠に置かれた丸い縄の中に立ちつくしている男は、法を犯したために三年間拘束されているのであり、同じ方角を向いて立ちつくしている人々は、赤く塗られた木の札を通りかかった旅人が裏返して青に変えてくれるのを待っているのだ。
いつ来るとも知れない人をただ待ち続けている。旅人は信号に近づいてい<
った。振り向くと、上目遣いでこちらをみている集団があった。前に向き
直り札に手をかけると、ひっくり返す。その瞬間、人々は散り散りに歩き
出した。こちらに見向きもせず去ってゆく。残された旅人は札を赤に戻し、
ふたたび歩きはじめた。(「砂漠の信号」より)
この作品では、人がつくりだした法律がただの形となって人を支配している様があっけらかんと描かれている。このように、本来は人が共同生活を送るために便宜的に作られたはずだった約束ごとは、いつしか人の生活そのものを支配するものとなる。
そこでは約束ごとに従うことが手段ではなく、目的になってしまっているわけだ。
さて、約束ごとが集約されたものとして”文字”があるのかもしれない。
文字は、言ってみれば単に線の形である。それなのに意味を担うと約束されている。その点からは、言葉と文字はまた異なる次元のものとなるだろう。言葉は音と形というふたつの属性を持つが、文字は形しか持っていない。
その文字の形がもつ約束ごとの強さは激しい。
「犬」という文字を読んでいわゆる”猫”を想起する人はいないだろう。「犬」という文字は”犬”をあらわすという約束ごとを日本人は幼い頃から学んできているからだ。(と、ここでも”犬”とか”猫”とかを文字で表さなければならないわけだ。)
だから、ときどきはその約束に叛きたくもなるわけだ。
ここで、「犬」と書いて”猫”を意味することは可能かと考える。(もちろん、「犬」と書いて、そこにたとえば”深い友情”とか”崩壊した家族”とかを暗示させる、あるいはそれらの暗喩として用いる、という次元のことは別にして、の話だが。)
(また、ある種類の統合失調症、あるいは認知症では、言葉と実体との解離がみられるが、これはものの認識の失調に起因することなので、これも別の次元のこととなる。)
このように、あくまでも文字表現として考えるとき、線の形に過ぎない文字がある決められた意味を担うという約束ごとは、たいへんに強いものであることを痛感させられる。
文字というものが成立したときに、必然的に文字はその約束ごとを背負っていたわけだ。だから、「犬」と書いて”猫”を意味させたのでは、それでは文字を用いる意味がないではないかという思いに至るわけだ。
しかし、それだけでよいのか?
文字を読んだ人に伝えられた「犬」は現実の”犬”ではなく、読んだ人の中にすんでいる虚構の”犬”でしかないのだぞ。