自由詩時評 第8回 小峰慎也

「枝」と「何」 小峰慎也

 うー。苦しいな。

 須藤洋平・三角みづ紀『ふたり詩集』(私家版)を手に入れた。去年(2010)年12月5日発行、二人が三篇ずつ詩を収める。その中で須藤洋平「体脂肪」が気になった。

 サッカー観戦の途中で、僕はどうしても気分がすぐれなくなり、一人スタジアムを後にした。終始、全力で走りまわり激しいプレーをする選手たち。街を歩きながらもそんな光景が頭から離れずにいた。すると、小用を足そうと入った公園の汚い公衆便所の鏡に、めかし込み、肌をあらわにした少女が映ったような気がした。…冷たく湿ったコンクリートの匂い…端の黒ずんだケイコウ灯…その時、悲鳴のような声を聞き、 勇んで便所を飛び出し、そこいら中を見まわしたが、それらしき人はどこにもおらず、再び便所へ戻ろうとすると、思いもよらずフェンスから飛び出た樹木の枝に顔面を強打し、尻餅をついた。鼻血が飛び出て差し歯がぐらつき腐ったような歯垢の匂いと、つんとした鋭い痛みが走った。
 
犬がまっすぐに吠えた。

全文である。「体脂肪」というタイトルがとてもいい。

 最初から引き込まれるが、それは、サッカー観戦の途中で気分がすぐれなくなるということで、すでに、語り手が自分のありかたの核を捉まえてしまっているからだ。リアリティの条件を示したといってもいい。そしてそれに続く「終始、全力で走りまわり激しいプレーをする選手たち。」という文では、サッカーであれば、当然そうあるはずの選手たちのプレーの様子が、「終始」「まわり」「激しい」といった語の組み合わせで、何か異様なもの、恐ろしいものとして表現される。これは、サッカー観戦から排出された「僕」の目(ものの見方)をあらわすことにもなっている。

 ここからの展開が詩の急所になる。

 「すると、」からはじまる文は、妙でありながら、とても自然だ。「小用を足そうと入った」ということばを、形容のことばにしてしまっていることに巧みさを感じる。激しいプレーをする選手のことが頭から離れずに歩いている、「すると、」鏡に少女が映ったような気がした、というつながりが唐突でありながら、自然な展開を保っているのは、「小用を足そうと入った」ということばがさりげなくさしはさまれているからである。

 この少女はいったい何なのか。イメージも鮮烈であるが、それに続く、「冷たく湿った」から「ケイコウ灯…」までの「描写」が、一時、時間を止める働きをしている。このがきいている。鏡に映った少女というなぞから、何かが起こるための準備を読者と一緒にはかれるようになっているからだ。沈黙を打ち破る悲鳴。当然、「僕」といっしょに読者も少女を探す目になっている。だが、いない。そして便所に戻る「僕」は突然、「フェンスから飛び出た樹木の枝」で顔面を強打する。この枝こそがこの詩のなかでもっとも存在感を持っている、そして、この詩を読むまでは、知らなかった「枝」なのだ。いったいどこから出てきたのだろう。普通は動かない、「樹木の枝」が、戻る間に突然のように現れている。この「枝」を存在させるためだけにでも、それまでの演出があったとさえいえると思う。

 「文學界」6月号の、今年の中原中也賞受賞者・辺見庸の詩篇「眼の海――わたしの死者たちに」を、感想を持ちたいと思って読んだ。辺見庸は、3月11日の震災の被災地である、石巻出身、全部で27篇、「慟哭と鎮魂の思いを詩の言葉に託」したと説明がある。

 簡単な印象を書くと、

 ①素直に書かれている。
 ②すぐれている―すぐれていないということはどうでもよく思える。
 ③長めの散文詩、「赤い入江」が詩篇の柱になっている。

 リフレインが多く、ごつごつした裸のことばをぶつけてきているという印象だが、そのことばの出方は素直。意味の通じないところ、意味の通じすぎるところごたまぜで、それはほとんど無技巧に見え、却ってそれで、インパクトが強まったり、弱まったりしている。つまり、それぐらいのことはどうでもいいことなのだ。何が重要なのか、何がこれらの詩を支えているのか。その「何」はなんだかわからないが、その「何」がどうやら、読者の感じ取っているものなのだと思った。

(2011年5月31日)

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