十八番 ゴヤ
左
ゴヤの火の煌々として走梅雨 久野雅樹
右勝
萬雷のひびきゴヤ畫集を焚けば 塚本邦雄
美術の世界にもとうぜん流行がある。現存作家の浮沈もそうだが、オールドマスターもまた評価や人気が変遷する。わが国での西洋美術の受容に話を限れば、過去二十年程の間、圧倒的に有卦に入っていたのはフェルメールだろう。また、同じ時期、欧米で重要な展覧会が頻繁に開催されていたのはカラヴァッジョである。それ以前、一九七〇年代の日本では、ゴヤの存在感が大きかったはずだ。一九七一年から七二年にかけて国立西洋美術館におけるゴヤ展に《裸のマハ》と《着衣のマハ》が揃って出品されて話題となり(今秋、後者だけが四十年ぶりに来日する)、一九七七年には堀田善衛の長大な評伝『ゴヤ』が完結している。飯島耕一の名詩集『ゴヤのファースト・ネームは』が一九七四年に出ているのも、そうした当時の雰囲気が与ってのことであろう。
堀田や飯島と同時代を生きた塚本邦雄に右句があることは、よって少しも不思議ではない。「ゴヤ畫集」を火に投じるという暴力的なイメージ自体がゴヤ的と言えばゴヤ的。燃える画集が「萬雷のひびき」を発するのは、作品数無慮二千点に及ぶというこの画家の多産さ、技法(油彩、フレスコはもちろん自由素描の名手であり、アクアティントの大成者でもあった)と主題(宗教画、ロココ的な風俗画、一大人間図鑑のさまを呈する肖像画、「ロス・カプリチョス」、「戦争の惨禍」、「黒い絵」……)の驚くべき多彩さへの讃美である。絵は無声の詩、詩は有声の絵という趣旨のことは西洋でも東洋でも言われているが、無声の詩としての絵画が火中されたことで詩としての本性を現わして声を発する、それも万雷の声を、という理路が一句の背後にはあろう。ちなみに、ゴヤが一七九二年、四十六歳にして聴覚を失なっている事実もまた、無声(無音)のものこそが最も有声(万雷の響き)であるという逆説を補強する。対ナポレオン戦争(スペイン独立戦争)に取材した傑作の数々といい、戦後の反動政治に対する絶望から生まれた「黒い絵」の一群といい、これ以上の“響きと怒り”に満ちた絵は考えられないが、それを描いた画家は全き無音の世界に生きていたのである。
さて、久野雅樹の左句であるが、「ゴヤの火」がよくわからない。「火」が焚火であるのか、灯火であるのか、暖炉などの火であるのかもわからないし、なぜそれがゴヤと結びつくのかもわからない。ゴヤには《夜の火事》(一七九三年)や《鉄砲玉作り》(一八一〇~一四年頃)など直接、火を描いた作が無いわけではないが、それらは佳作ではあっても誰もが思い出せるような絵ではない。ひょっとしてと思うのは、《一八〇八年五月三日、マドリード プリンシペ・ピオの丘での銃殺》(一八一四年)で、五月二日蜂起の参加者を翌三日未明、フランス軍が銃殺する場面を描いたこの代表作は、巨大な四角いランタンを光源にしている。五月三日では「走梅雨」には早すぎるようだが、それには目をつぶるとすると、走梅雨の暗がりの中で見た何かの火(灯)があたりを照らす様子が、ゴヤの《一八〇八年五月三日》の絵の光の具合に似ていたことを詠んだものであろうか。これはかなり親切な読みのつもりだが、それでもなお釈然としない。あるいは「ゴヤの火」を“ゴヤの魂の火”というふうに全く主情的に解釈すべきなのか。するとしかし「走梅雨」の働きがわからなくなる。
右句もそれ程すぐれた作とも思えないが、上述のごとく、左句の句意がよく通らないので、おのずから右句の勝ち。なお、塚本には、
ゴヤ八十二歳の客死枇杷爛熟
の作もある。
季語 左=走梅雨(夏)/右=雷(夏)
- 久野雅樹(ひさの・まさき)
一九六四年生まれ。山口青邨指導の東大ホトトギス会などで学ぶ。「天為」同人。掲句は、『超新撰21』(二〇一〇年 邑書林)より。
- 塚本邦雄(つかもと・くにお)
一九二〇~二〇〇五年。戦後短歌を代表する歌人。俳句にも通暁し、作句も試みている。掲句は『燦爛』(一九八五年 書肆季節社)より。