日めくり詩歌 自由詩 山田亮太(2012/03/19)

耳たぶのやわらかさで 伊達風人

うすらうすら/耳たぶのやわらかさで/ 
  恒常的に/ 
    世界に触れているもの/ 
  それは、沈黙のカタマリ/ 
    そして、何者でもあったはずの/ 
  僕らのみなもと 
 
       受け継がれるべき沈黙が、薄く輪切りにさ 
れて放り出されたのだろう。散らばったひとつの胚珠を中 
心に抱いたまま、幾億もの透き通った歳月の年膜が順接的 
にそこへ付着することで、僕らの尾てい骨からは、白い尾 
が他者へと向かって伸びている。うすらうすら、耳たぶの 
やわらかさで。尾の先端の連接部ではゲル状の固体が真新 
しい年膜と再交接するために、ぐじゅぷると待機している。 
随意筋の不随意さに従って。肉体の滅びるときまで。寒天 
質の先端部は空気と接触する度に液状化し他者との接合環 
境を作り出そうとするが、かつてそこから入り込んだもの 
の、そこから抜け出せずに今にも暴れ出しそうなカタマリ 
が、それを押さえ付けようとする理性のボルトと概念のナ 
ットによって弁の如く内側から瞬間的に固定されてしまう 
ので、尾の先端は呼吸の速度で融解と凝固とを繰り返して 
しまう。うすらうすら。 
 
(中略) 
 
渦巻く存在さえもあやめがちな 
ナットの硬さのために、 
何をどれだけ知ったとしても 
僕らのやわらかな入口は既に塞がれている。 
出力も入力も出来ないこのときでさえも、 
言葉を知らないものたちが、あらゆる口を開いて 
沈黙の胚珠を放出し続けているというのに。 
うすらうすら。耳たぶのやわらかさで。 
それでも年膜同士は交接している。 
剥き出しの尾はうねり続けている。 
沈黙とは、そのように 
言葉を知らないものたちが 
いっせいに語りはじめること。 
僕らはそのささやきに震えるだけの 
幾億もの新しい耳。そして、 
みなもとの胚珠が渦巻いている銀河で、 
たったひとつの出口、 
たったひとつの三半規管だった。

(思潮社『風の詩音』所収、2012年2月)

伊達風人さんの詩集『風の詩音』を通読して最も印象に残った一篇です。 
とりわけ末尾近くの次のフレーズを強く心に留めました。

「沈黙とは、そのように/言葉を知らないものたちが/いっせいに語りはじめること。/僕らはそのささやきに震えるだけの/幾億もの新しい耳。」

二つ文から成るこのフレーズの中では、何重にも驚くべきことが述べられています。 
つまり、「言葉を知らないもの」が「語る」ことができるという驚き。 
そのことが「沈黙」であるという驚き。 
さらに、「僕ら」はその「語り」=「沈黙」に震える「耳」であるという驚き。 
これらは本当に想像を絶する事態です。

この二つの文は、よく見れば、それらだけでは自立していません。 
「そのように」が意味するのは何でしょうか。 
一つ前の行「剥き出しの尾はうねり続けている。」を受けているのでしょうか。 
あるいはそれよりももっと前、「言葉を知らないものたちが、あらゆる口を開いて/沈黙の胚珠を放出し続けているというのに。」という部分に答えを見いだすべきでしょうか。 

どのように読むにせよ、ますます謎は深まるばかりです。 
「剥き出しの尾」とは? 
「沈黙の胚珠」とは? 
こうして私は、この謎めいて魅惑的な文章の全体へ、再び向き合うことを余儀なくされるのです。

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